清道村 郡村誌

 現在の舞鶴市清道(キヨミチ)。明治17年当時、戸数 29戸、社1戸、総計30戸、人数 男63口、女60口、総計123口。

・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

村誌

丹後国加佐郡清道(キヨミチ)村

本村古時大内郷ノ内ニシテ同郡上安村部内字清谷ト称セシヲ、中古田造郷<即今ノ田辺>ノ内字矢原ノ人民移住シテ更ニ清道ト称ス、然トモ猶上安村ノ属タリシヲ、明治六年独立シテ清道村ト称ス<本村名義ノ起因ヲ按スルニ、風土記田造郷条下ニ、爾(コヽニ)天道姫命授以弓矢天香語山命、而詔(ノリ玉ハク)汝(イマシ)可発(ハナツ)三(ミタヒ)其矢、矢留之処必清(キヨキ)地(トコロ)矣(ナラン)、命諾(ウヘナヒテ)而発其矢、則到于当国之矢原山>トアリ、其村名ヲ清道ト命セシハ、風土記謂フ所、天道姫命ノ詔ニ必清(キヨキ)地(トコロ)矣(ナラム)トアリシニ拠ル者ナラン

●疆域  東ハ同郡森村ト山ヲ以テ界シ、西ハ上安村ト山或ハ耕地ヲ以テ界シ、南ハ天台村ト山或ハ耕地ヲ以テ界シ、北ハ餘部上村ト山嶺ヲ劃ル

●幅員 東西七町三十五間、南北八町三十五間余、面積欠ク

●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ

●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル二十四里七町余、宮津支庁ヨリ東南方大凡八里余、四隣東森村ヘ二十四町五十七間、西北上安村ヘ十五町十五間<実測>、南天台村ヘ五町九間<実測>

●地勢 三面丘陵起伏シ、中央及ヒ西南部稍闢ケタリ、地形恰モ螺殻ノ如ク、東南ヲ旋端トシ西北ヲ鋭頭トス、而シテ民居ハ其腹部ニアリ、運輸便利薪足リ炭乏シ

●地味 其色赤黒相交リ、其質下等、稍稲・麦ニ可ニシテ桑・茶ニ適セス、水利不便ニシテ時々旱害アリ

●税地 田<九町四反九畝拾歩>、畑<壱町六反弐拾九歩>、宅地<八反三畝弐歩>、総計<拾壱町九反三畝拾壱歩、外荒地拾壱歩>

●字地 峠<村ノ東南ニアリ、已下同シ、東西三十六間、南北二町五十間>、家ノ上<東西一町十三間、南北一町十七間>、村中<東西二町二十八間、南北三十四間半>、北谷<東西二町五十七間、南北一町三十八間>、中ヶ谷<東西三町四十六間、南北一町四十七間>、真(マ)谷<東西五町三十三間半、南北二町四十九間>、向堂(ムカヒダウ)<東西一町十四間、南北二町二十一間>、小屋ヶ迫(サコ)<東西一町六間、南北二町九間>、鳥ヶ谷<東西一町十間、南北一町五十七間>、稲口<村ノ西北ニアリ、已下同シ、東西一町四十二間、南北一町二十四間>、保(ホ)ノ迫(サコ)<東西一町五間余、南北一町九間半>、榎垣<東西一町五十八間、南北四町十六間>、柿迫(カキサコ)<東西一町五間余、南北三町三十二間>、尾長谷<東西一町十四間、南北二町四十二間>、瀬谷<東西一町五十五間、南北二町五十七間>

●貢租 地租<金百七拾円壱銭壱厘>

●戸数 本籍二十九戸<平民>、社一戸<無格社>、総計三十戸

●人数 男六十三口<平民>、女六十口<平民>、総計百二十三口

●牛馬 牝牛九頭

●山 奥山<高二十八丈余、周回欠ク、村ノ東南ニアリ、全山本村ニ属ス、山脈東方森村山ニ連リ南方天台村山ニ亘ル、樹木生セス、満山只榛莽ヲ見ル、登路アレトモ僅ニ蒭蕘者ヲ通スル小径ナリ・・>、下山<高二十二丈余、周回欠ク、村ノ西北ニアリ、全山本村ニ属ス、山脈西方上安村山ニ連リ東方森村ニ亘ル、已下皆奥山ニ同シ>

●川 本谷川<源ヲ本村東南方真谷山ノ麓ヨリ発シ、村ノ南方ヲ通シ西北方上安村界ニ入ル、長七町三十間、巾五尺、平時水流ヲ見ス、霖雨ノ際暴漲ス>、石橋<若狭道ニ属ス、架シテ村ノ西方本谷川下流ニアリ、橋長五尺、巾一間半>

●湖沼 尾長谷池<東西二十四間、南北三十九間、周回四十一間余、村ノ西北ニアリ、本村ノ田若干歩ノ養水ニ供ス>

●道路 若狭道<村ノ西方天台村界ヨリ東方森村界ニ至ル、長七町七間、巾二間>、村道<村ノ西方字石橋ヨリ西ニ通シ上安村界ニ至ル、長三町、巾四尺>

●堤塘 本谷川堤<本谷川ニ沿ヒ、村ノ東南字真谷ヨリ起リ西北方上安村界ニ至ル、長七町三十一間、巾五尺、修繕民費>

●社 稲荷神社<社地東西四間一尺余、南北三間四尺余、面積十五坪余、村ノ北ニアリ、保食神ヲ祭ル、祭日六月六日>

●民業 男女専ラ農業ヲナス

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