西方寺村 郡村誌

 現在の舞鶴市西方寺(サイホウジ)。明治17年当時、戸数 106戸、社4戸、総計110戸、人数 男225口、女219口、総計444口。

・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

      村誌

丹後國加佐郡西方寺(サイハウシ)村

本村中古以来岡田荘ニ属ス、相伝フ、古ヘ志託郷或ハ凡海郷等ノ内ニ属セシト、然トモ此郷名今全ク廃シテ考証ノ拠ルヘキナシ、里俗云、往昔<岡田由里・冨室・河原・本村>ヲ総称シテ猪熊村ト唱ヘシヲ、中古分裂シテ四村トナスト、村内字堺川ヲ劃リ之ヲ上下二部ニ分ツ、其上ヲ上西方寺トシ、其下ヲ下西方寺トス、何レノ時カ合併シテ今ノ称ヲ用フ

●疆域  東ハ同郡河原村ト諸山嶺ヲ以テ界シ、西南ハ地頭村ト岡陵ヲ以テ界シ、南ハ岡田由里村ト山嶺及ヒ耕地ヲ劃リ、北ハ與謝郡今福村ト字宇ノ尾嶽ヲ以テ界シ、西北ハ本郡瀧ヶ宇呂村ト山嶺ヲ限リ、東北ハ下見谷村ト赤岩ヲ以テ境ス

●幅員 東西十五町三十三間、南北一里二十六町一間、面積欠ク

●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ

●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル二十八里六丁三間七分、宮津支庁ヨリ南方四里半、四隣東河原村ヘ二十五丁四十八間七分<実測>、西南地頭村ヘ一里二丁三十五間六分<実測>、西北瀧ヶ宇呂村ヘ二十四丁三十九間四分、西南河守町ヘ三里五丁四十七間半、南岡田由里村ヘ二十六丁九間二分<実測>

●地勢 東西ニ短窄シ南北ニ延長ス、北方山岳重畳シ岡田川村ノ中央ヲ貫流ス、人家ハ二部ニ分ル、運輸不便薪炭最多シ

●地味 其色赤黒錯雑砂礫ヲ混ス、其質中等、稲・粱ニ宜シクシテ桑・茶ニ可ナラス、水利ハ便ナレトモ却テ水害ヲ蒙ムルコトアリ

●税地 田<三拾九丁弐反八畝拾三歩>、畑<九丁四反五畝弐拾八歩>、宅地<三丁七畝弐拾七歩>、山<反別欠ク>、薮地<七畝歩>、総計<五拾壱丁八反九畝八歩、外荒地壱丁九反七畝弐拾九歩>

●字地 和田<村ノ南ニアリ、東西三丁二十三間半、南北二丁二十五間>、馬場<同上、東西一丁十六間、南北二丁四十間>、野田<本村元標ノ地ヲ云フ、東西五十八間、南北四十間>、山王<村ノ東方ニアリ、東西二丁五間、南北四十二間>、五明<村ノ東北ニアリ、東西二丁十八間、南北一丁三十一間三分>、田尻<村ノ東北ニアリ、東西一丁五十一間、南北三丁十五間>、幸盛<村ノ北方ニアリ、東西一丁十間、南北二丁二十間>、北<同上、東西二丁八間、南北二丁三十六間>、平尾<同上、東西五十間、南北一丁五十六間>、以上著名ノ字ヲ挙ク、余ハ欠ク

●貢租 地租<金四百拾九円四拾壱銭五厘>、山税<金壱円廿壱銭壱厘>、国税<金廿九円五拾弐銭>、府税<金三円>、総計<金四百五拾三円拾四銭六厘>

●戸数 本籍百六戸<平民>、社四戸<村社一座、無格社三座>、総計百十戸

●人数 男二百二十五口<平民>、女二百十九口<平民>、総計四百四十四口

●牛馬 牡牛一頭、牝牛十九頭、総計二十頭

●山 宇ノ尾嶽<高百五十六丈七尺、周回欠ク、村ノ北ニアリ、嶺上ヨリ四分シ、東ハ下見谷村ニ属シ、西ハ與謝郡小田村・喜多村及ヒ本郡瀧ヶ宇呂村ニ属シ、北ハ與謝郡今福村ニ属シ、南ハ本村ニ属ス、山脈普甲山ニ連ル、樹木半ハ鬱葱、半ハ柴草ヲ生ス、登路一条、本村北方字平ヨリ上ル昇一里十三丁四十八間、険易相半ス、渓水二条、共ニ山間ヨリ発シ山麓ニ至リ、相会シ平川トナリ末岡田川ニ入ル、長欠ク、巾一間半ヨリ三間ニ至ル>、向日山<高七十二丈、周回欠ク、村ノ東ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東南ハ岡田由里村及ヒ河原村ニ属シ、西北ハ本属ニ属ス、山脈東方由良ヶ嶽ニ連亘ス、樹木鬱葱ス、登路数条アリ、皆小径ナリ>

●川 岡田川<深所三尺、浅所五寸、広所十二間、狭所七間、水勢駛急、其清キコト麗鏡ノ如シ、村ノ東方河原村界ヨリ来リ、本村字出合ニ至リ平川ヲ容レ、屈曲南流シ岡田由里村界ニ入ル、長三十二丁二十五間八分>、平川<岡田川ノ支流、広所六間余、狭所一間半、涓流ナリ、其水極テ清シ、土人往々飲料ニ供ス、因テ世人称シテ宇瀧清水ト云フ、本村北方宇ノ尾嶽ヨリ発注シ、南流シ字出合ニ至リ岡田川ニ入ル、長三十六丁>、出舟橋<宮津往還ニ属ス、架シテ村ノ南方岡田川下流ニアリ、橋長八間、巾七尺、木製、以下皆同シ>、野田橋<同上、架シテ村ノ東方岡田川上流ニアリ、橋長十一間、巾三尺>、今飼橋・堺川橋・出合橋<共ニ宮津往還ニ属ス、架シテ村ノ東北方岡田川上流ニアリ、長各七間、巾各三尺>、和田溝<岡田川分水ニシテ、本村字馬場谷下ヨリ起リ、字和田ニ至リ七派ニ分レ、田三丁五反三畝二十二歩ヲ養ヒ、字奥和田ニ至リ岡田川ニ帰ス、長七丁六間半、巾二尺許>、宇津木野溝<同上、本村字庚申ノ下ヨリ起リ、字宇津木野ニ至リ五派ニ分レ、田二丁二反二十六歩ヲ養ヒ、字口和田ニ至リ和田溝ニ会ス、長四丁二十間半、巾二尺>、桐木迫溝<同上、本村字汐カキ場ヨリ起リ、字桐木迫ニ至リ二派ニ分レ、田九反一畝十一歩ノ養水トナリ、字戸尻ニ至リ岡田川ニ帰ス、長四丁十一間三分、巾二尺>、馬場溝<同上、本村字出舟山ノ麓ヨリ起リ、字馬場ニ至リ四派ニ分レ、田一丁八反五畝二十二歩ノ養水トナリ、字馬場下ニ至リ桐木迫溝ニ入ル、長二丁六間、巾二尺>、前田溝<同上、本村字野田ヨリ岡田川ヲ分水シ、字前田ニ至リ五派ニ分レ、田一丁八反五畝十歩ノ養水ニ供シ、字汐カキ場ニ至テ岡田川ニ帰ス、長五丁四十三間三分、巾二尺>、以下小溝猶多ケレトモ欠ク

●森林 平宇野ヶ嶽林<官ニ属ス、四覆欠ク、反別八拾四丁歩、村ノ北ニアリ、囲三尺長二間以下松四百株、囲一尺以下長一間半栗五十株、囲一尺以下長一間雑木八千四百株>

●道路 宮津往還<村ノ東北河原村界ヨリ南方岡田由里村界ニ至ル、長二十四丁九間、字今飼ヨリ東折シ冨室村ヘ通ス、又字出合ヨリ北折シ與謝郡今福村ヘ通ス、又字於嵯口ヨリ北折シ本郡瀧ヶ宇呂村ニ通ス、又本村元標ヨリ西ニ折レ地頭村ニ通スル、四支道アリ>

●堤塘 岡田川堤<岡田川ニ沿ヒ、村ノ南方岡田由里村界ヨリ東方河原村界ニ至リ、長三十五丁十七間六分、馬踏平均一間半、堤敷平均三間、水量定杭長一丈二尺、根堅メ小竹疎生ス、修繕費用ハ官民両途ニ属ス>

●瀧 阿久瀬瀧<高五十丈、幅二間、宇之尾ヶ嶽ヨリ出テ村ノ北方字平(ダイラ)ニ落ツ、下流岡田川トナル>

●社 猪藏神社<村社々地、東西八十二間、南北四十間、面積千七百三十三坪、村ノ南方字出舟ヶ陵ニアリ、経津主尊・武甕槌尊ヲ祭ル、白鳳元年壬申勧請ス、長治二年乙酉、火災ニ罹リ焼亡ス、嘉承元年丙戌再建ス、祭日九月十七日・十月十六日・十七日、境内老樹森々タリ、又末社三座アリ>、八幡神社<社地四履欠ク、面積四十一坪、本村字北ニアリ、誉田別命ヲ祭ル、相伝フ、往昔山城國男山八幡宮ヨリ勧請スト>、愛宕神社<社地四履欠ク、面積二十坪、本村字ヲサニアリ、軻遇突智命ヲ祭ル、里俗云、山城國葛野郡愛宕神社ヨリ勧請セリト>、山王神社<社地四履欠ク、面積二十坪、本村字山王ニアリ、大山咋命ヲ祭ル、相伝フ、某年城州葛野郡松尾神社ヨリ勧請ス>

●学校 人民共立小学校一所<村ノ南方ニアリ、生徒男七十六人、女六人>

●古跡 西方寺址<村ノ北方字往語ニアリ、境内四履詳ナラス、土人云フ、往昔此地ニ真言宗西方寺ト称スル古刹アリシカ、何ノ時カ京都ヘ移スト、然レトモ考証ノ拠ル可ナシ、今纔ニ観音堂ノ一小宇ヲ存スルノミ>

●物産 串柿<二百束>、楮皮<千貫目>、杉・檜材<一万材>、以上若狭國小濵市街ニ輸出ス、生糸<百八十七斤半>、炭<百二十五駄>、右ハ與謝郡宮津市街ニ販売ス

●民業 男<農・桑ヲ業トスル者九十六戸、薪・炭ヲ業トスル者十戸>、女<農・桑及ヒ養蚕ヲ兼ヌル者百五十三人、余ハ各夫業ニ従フ>

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