大俣村 郡村誌

 現在の舞鶴市大俣(オオマタ)。明治17年当時、戸数 121戸、社3戸、寺1戸、総計125戸、人数 男280口、女243口、総計523口。

・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

      村誌

丹後國加佐郡大俣(オホマタ)村

本村往古志託郷或ハ凡海郷ニ属スト、然トモ此郷名今全ク湮滅シテ存セス、中古岡田荘ニ属セリ、本村嶽社ノ旧記ニ拠ルニ、嘉禄ノ頃ハ洪厨熊浪村ト唱ヘシヲ、何レノ時カ今ノ称ニ更ム

●疆域  東ハ同郡地頭村ト岡陵及ヒ檜川中央ヲ以テ界シ、西ハ毛原・内宮・二俣ノ三村、南ハ地頭・高津江・三河ノ三村ト各諸山嶺ヲ以テ界シ、北ハ與謝郡小田・喜多・上宮津ノ三村ト又諸山嶺ヲ以テ界ス

●幅員 東西三十五丁、南北一里一丁七間三分、面積欠ク

●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ

●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル廿七里廿七丁四間二分、宮津支庁ヨリ南方三里三十丁五十九間、四隣東地頭村ヘ十丁三十二間八分<実測>、西内宮村ヘ一里廿一丁廿四間二分、北與謝郡辛川村界ヘ一里十二丁五十九間六分<実測>

●地勢 四面山岳囲繞シ土地窿窪一ナラス、人家所々ニ散在ス、檜川村ノ中央ヲ貫通ス、運輸極テ不便薪炭最多シ

●地味 其色赤黒砂礫ヲ混ス、其質上等、稲禾及ヒ桑・茶ニ適ス、水利ハ不便ニシテ常ニ旱患アリ

●税地 田<四拾五丁九反七畝弐歩>、畑<弐拾丁八反八畝拾弐歩>、宅地<三丁三反四畝拾壱歩>、山<反別欠ク>、薮地<弐反弐畝弐拾歩>、総計<七拾丁四反弐畝拾五歩、外荒地五反九畝弐拾三歩>

●字地 薦池(コモイケ)<村ノ東ニアリ、東西一丁三十一間、南北三丁十間>、荘内屋敷<村ノ南ニアリ、東西二十四間、南北一丁十一間>、嶽<村ノ北ニアリ、東西三丁五間、南北三丁二十間>、惣谷<村ノ西ニアリ、東西四丁、南北二十四間>、中田<村ノ北ニアリ、東西一丁三十間、南北二丁三十五間>、狭戸(セバド)<村ノ南ニアリ、東西五十四間、南北五丁十八間>、ナル<村ノ北ニアリ、東西三丁二十七間、南北五十四間>、以上著名ノ字ヲ挙ク余ハ欠ク

●貢租 地租<金四百三拾六円九拾八銭七厘>、山税<金五円三拾三銭壱厘>、国税<金弐拾八円拾五銭>、府税<金五円弐拾銭>、総計<金四百七拾五円六拾六銭八厘>

●戸数 本籍百二十一戸<平民>、社三戸<村社一座、無格社二座>、寺一戸<禅宗>、総計百二十五戸

●人数 男二百八十口<平民>、女二百四十三口<平民>、総計五百二十三口

●牛馬 牡牛一頭、牝牛三十九頭、総計四十頭

●山 西ヶ嶽<高凡九十丈、周回欠ク、村ノ西方ニアリ、嶺上ヨリ二分シ、西ハ毛原村ニ属シ、東ハ本村ニ属ス、山脈北方與謝郡小田・喜多二村ノ山ニ連ル、樹木鬱葱タリ、登路二条、一ハ本村ヨリ南ニ向テ上ル昇リ凡十丁、一ハ字惣谷ヨリ上ル昇リ凡七丁、共ニ険ナリ>、居舩山<高凡九十三丈、周回欠ク、村ノ南方ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、西南ハ内宮村ニ属シ、東南ハ三河・高津江・地頭ノ三村ニ属シ、北ハ本村ニ属ス、山脈北方西ヶ嶽ニ連続ス、樹木鬱葱、登路二条、一ハ本村字鞍掛ヨリ上ル昇リ十三丁、険易相半ス、下同シ、一ハ字佛谷ヨリ上ル昇リ十五丁、渓水一条、山間ヨリ発シ、本村ノ田七丁二畝二十四歩ノ養水ニ供シ、字佛谷口ニ於テ諸渓水ヲ合セ、字飛石ニ至リ檜川ニ入ル、長三十一丁三間、巾九尺ヨリ六尺ニ至ル>、砥石ヶ嶽<高凡百二十丈、周回欠ク、村ノ東北ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東ハ地頭村ニ属シ、北ハ與謝郡小田・喜多ノ二村ニ属シ、西南ハ本村ニ属ス、山脈宇尾ヶ嶽・普甲嶺等ニ連ル、樹木稀生ス、登路一条、本村北方ヨリ上ル昇リ十三丁、険ナリ、渓水二条、一ハ字嶽谷ヨリ起リ字嶽ニ至リ檜川ニ入ル、長三丁七間、巾三尺、一ハ字源城寺谷ヨリ起リ、本村ノ田五反六畝二十五歩ノ養水ニ供シ、字中ノ垣ニ至リ檜川ニ入ル、長五丁十八間、巾三尺>

●川 檜川<深所二尺、浅所三寸、広所九間余、狭所六間余、清ニシテ急、北方與謝郡小田・喜多二村界ヨリ来リ、本村字出合ニ至リ地頭村ニ入ル、長一里二十七丁五十一間半>、別荘橋<宮津往還ニ属ス、架シテ村ノ東方檜川上流ニアリ、長六間、巾三尺、木製>、舘(タテ)橋・荒神橋・庄内上橋・仲ノ垣橋・寺橋・長鶴橋・飛石橋・上原田橋・堂ノ前橋・狭戸(セバト)橋<共ニ宮津往還ニ属ス、架シテ村ノ西北檜川上流ニアリ、橋長各七間、巾各三尺、皆木製ナリ>、高橋<同上、架シテ村ノ北方檜川上流ニアリ、橋長六間、巾三尺、土造ナリ>、薦池(コモイケ)溝<檜川分派ニシテ本村南方字舘ヨリ起リ、字薦池ノ田二丁三反二十五歩ヲ養ヒ、字宮ノ腰ニ至リ檜川ニ入ル、長四丁三十五間、巾二尺四寸>、洞中谷溝<村ノ南方字洞中谷ヨリ発シ、字洞中ノ田二丁七反七畝十五歩ノ養水ニ供シ、字宮ノ腰ニ至リ檜川ニ入ル、長十四丁五間、巾平均三尺五寸>、寺ノ下溝<檜川分水ニシテ本村北方字仲ノ垣ヨリ起リ、字仲ノ垣ノ田一町二反四畝二十一歩ヲ養ヒ、字舘ニ至リ又檜川ニ帰ス、長三丁四十七間、巾三尺>、狭戸(セバト)溝<同上、本村南方字狭戸ヨリ起リ、字狭戸ニ至リ二派ニ分レ、田二丁二反二畝十一歩ヲ養ヒ、字下狭戸ニ至リ檜川ニ入ル、長六丁八間、巾二尺四寸>、上ヶ石溝<同上、本村北方字上ヶ石ヨリ起リ、字上ヶ石ノ田三丁二十六歩ノ養水ニ供シ、下流檜川ニ帰ス、長九丁三間、巾通シテ二尺四寸>、此他小溝ハ欠ク

●道路 宮津往還<村ノ東方地頭村界ヨリ北方與謝郡小田・喜多二村界ニ至ル、長一里十七丁十五間、巾五尺>、村道<村ノ西北字飛石ヨリ西方内宮村界ニ至ル、長二十一丁五十間、巾四尺、本村元標ヨリ東折シ地頭村ニ通スル支道アリ>

●堤塘 檜川堤<檜川ニ沿ヒ、村ノ東方地頭村界ヨリ北方與謝郡小田・喜多二村界ニ至ル、長二里十丁三十七間、馬踏一間、堤敷三間、根堅メ篁竹ヲ植ウ、修繕費用ハ官民両途ニ属ス>

●社 嶽神社<村社々地、東西二十八間、南北十八間、面積五百十五坪、村ノ北方字嶽ニアリ、祭神興津彦神・興津比賣神、相伝フ、寛文十年庚戌正月創建スト云フ、祭日七月十九日、境内末社五座アリ>、壇神社<社地東西十二間、南北十四間、面積八百五十二坪、村ノ北方字壇ニアリ、祭神詳ナラス、宝暦四年甲戌六月勧請スト、祭日九月七日、境内末社四座アリ>、木戸神社<社地東西七間、南北六間、面積百六十五坪、村ノ北方字木戸内ニアリ、祭神詳ナラス、勧請年代詳ナラス、祭日十一月三日、境内末社一座アリ>

●寺 法隆寺<境内東西二十二間、南北二十六間、面積三百四十坪、村ノ南方ニアリ、禅宗、本郡舞鶴桂林寺末、貞享二年乙丑十一月、僧覚霊開基ス、当寺蔵スル所ノ古霊牌表面ニ曰、当時開基州巌宗意庵主覚霊貞享二乙丑年十一月二十二日、其裏面ニ曰、昔年於此谷有寺名天昌寺、今廃矣、宗意深傷而、以自庵為寺余、於是名以法隆寺、而為此寺之開基、桂林十七世霊重記トアリ、尓后衰微セシヲ、宝暦二年壬申八月、僧直指之ヲ中興ス>

●学校 人民共立小学校一所<村ノ北方字堂ノ前ニアリ、生徒男十九人、女五人>

●古跡 古城墟<東西凡三十間、南北凡二十間、村ノ南方字毘沙門ニアリ、回字形ヲナス、残礎今尚所々ニ散在ス、相伝フ、中古浮橋左近勝家ナルモノ之ニ居ルト、又大永ノ頃、野間安芸守治吉之ニ拠ルト、然トモ分明ナラス>、瀧尾寺址<村ノ南方字別荘ニアリ>、善導寺址<村ノ南方字諏訪ノ段ニアリ>

●物産 串柿<百五十束>、楮皮<千貫目>、杉・檜<二千材>、以上若狭國小濵市街ニ輸送ス、繭<二百五十貫目>、桐実<八十石>、炭<百二十駄>、莨<三百斤>、以上與謝郡宮津市街及ヒ本郡舞鶴市街ヘ運搬ス

●民業 男<農・桑及ヒ采薪・焼炭ヲ兼ヌルモノ百二十一戸>、女<農・桑ヲ業トスル者五十人、養蚕ヲ兼ヌル者百二十人>

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