現在の舞鶴市中山(ナカヤマ)。明治17年当時、戸数 44戸、社1戸、寺1戸、総計46戸、人数 男87口、女82口、総計169口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後國加佐郡中山(ナカヤマ)村
本村往古凡海郷由良荘ノ部内ニアリ、天正中ヨリ中山村ト称ス、尓後分合変換ナシ
●疆域 東ハ同郡水間村ト溝洫ヲ以テ界シ、西ハ大雲川中央ヲ以テ和江・丸田ノ両村ニ界シ、南ハ下東村ト字カツへ阪ヲ以テ界シ、北ハ水間村ト耕地ヲ以テ界ス
●幅員 東西凡一丁、南北九丁、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡廿六里十二町、宮津支庁ヨリ東南方凡四里十町、四隣東水間村ヘ凡五町三十三間<実測>、南下東村ヘ凡九町、北蒲江村ヘ凡二十二町
●地勢 東西ニ短窄シ南北ニ延長ス、西方一帯大雲川ヲ通ス、運輸便利薪炭乏シ
●地味 其色淡黒ニシテ砂ヲ混ス、其質下等、唯麦ニ可ナルノミ、水利ハ不便ニシテ時々旱ニ苦ム
●税地 田<弐丁九反八畝六歩>、畑<三丁五反三畝廿七歩>、宅地<壱丁弐反四畝拾八歩>、山<反別欠ク>、藪地<壱畝廿六歩>、総計<七丁七反八畝拾七歩>
●字地 カツヱ峠<村ノ東南ニアリ、東西四間半、南北四間>、宮ノ下<同上、東西十一間、南北二十間>、寺ノ下<同上、東西廿二間、南北一丁>、堀端<同上、東西一丁、南北二間半>、上ノ坪<同上、東西五十五間、南北五十間>、中ノ坪<同上、東西一丁五間、南北五十八間>、下ノ坪<同上、東西三十間、南北三十二間>、下ノ坪内町<同上、東西一丁五間、南北五十八間>、中ノ坪内町<同上、東西十三間、南北十七間>、浦道<村ノ西北ニアリ、東西十一間、南北一丁四十間>、ヒヱ田<同上、東西二十六間、南北五十三間>、神崎道<同上、東西廿六間、南北一丁十六間>、渡シ塲道<同上、東西廿五間、南北一丁十五間>、卯ノ森<同上、東西四間、南北三十一間>、サイカセ<同上、東西五間、南北三十二間>
●貢租 地租<金八拾四円七拾九銭七厘>、山税<金八銭弐厘>、国税<金四拾六円四拾銭>、総計<金百三拾壱円廿七銭九厘>
●戸数 本籍四十四戸<平民>、社一戸<村社>、寺一戸<禅宗>、総計四十六戸
●人数 男八十七口<平民>、女八十二口<平民>、総計百六十九口
●舟車 日本形舩三艘<五十石未満漁舩>
●山 ゼニガミ山<高周欠ク、下同シ、村ノ南隅ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東ハ水間村ニ属シ、南ハ下東村ニ属シ、西北ハ本村ニ属ス、山脈東方字千阪山ニ連ル、全山柴茅ヲ生ス、登路二条、一ハ本村字カツヱ阪ヨリ左折シテ上ル昇リ凡二丁、易ナリ、一ハ字八幅山ヨリ右折シテ上ル昇リ一丁、嶮ナリ>、城山<村ノ東ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東ハ水間村ニ属シ、南ハ下東村ニ属シ、西北ハ本村ニ属ス、山脈東方字ゼニガミ山ニ連ル、満山雑木ヲ生ス、登路一条、本村字寺山ヨリ上ル昇リ二丁、嶮ナリ>
●川 大雲川<二等河ニ属ス、深所一丈五尺、浅所五尺、広所一丁三十間、狭所三十間、清ニシテ緩、舟筏日々通ス、南方下東村界ヨリ来リ、本村西境ヲ栄流シ北方水間村界ニ入ル、長九丁>、土佐川<東方水間村界ヨリ来リ、本村字堀端ニ至リ大雲川ニ入ル、長凡一丁、巾六尺、平時水ナシ、霖雨ノ際暴漲ス>、土橋<宮津道ニ属ス、架シテ村ノ中央土佐川下流ニアリ、長二間、巾一間半>
●道路 宮津道<南方下東村界ヨリ北方水間村界ニ至ル、長九丁、巾二間、本村字稗田ヨリ北ニ折レ北方蒲江村ニ通スル支道アリ>
陵墓 古塚<村ノ東南隅字寺山ニアリ、東西二間、南北四間、面積八坪、五輪塔アリ、表面ニ文禄二年五月十日ノ八字アリ、其余剥蝕シテ分明ナラス、土人云、沼田幸兵衛ノ墓ナリト、然トモ考フ可カラス>
●社 八幡神社<村社々地、東西六間、南北十間、面積六十四坪、村ノ南方ニアリ、誉田和氣命ヲ祭ル、古来沿革詳ナラス、祭日八月一日、境内末社五座アリ>
●寺 祥雲寺<境内東西十四間、南北十五間、面積二百十七坪、禅宗、本郡舞鶴紺屋丁桂林寺末、村ノ東ニアリ、創建年代開基僧名詳ナラサレトモ、文化二年乙丑、僧永周中興ス>
●学校 人民共立小学校一所<村ノ東方字ホツケボニアリ、生徒男五十三人、女五人>
●郵便局 五等郵便局<本村東方字上ノ坪民宅中ニ仮設ス>
●古跡 沼田幸兵衛城墟<村ノ東方字城山山頂ニアリ、東西十五間、南北二十間、相伝フ、幸兵衛ハ細川幽斎ノ臣ニシテ、天正中此ニ居ルト、今ニ至テ土ヲ鑿ツ者、往々古尾断鉄ヲ掘出スト、丹哥府志曰、沼田幸兵衛ハ一色氏ノ臣ナリ、天正六年正月廿日、一色氏ノ本城建部山、長岡藤孝ノ為ニ陥ル、於是一色義道遁テ、其臣沼田幸兵衛ノ居城中山城ニ拠ル、沼田幸兵衛元ヨリ長岡氏ニ志アリ、是ヲ以、陽ハ一色氏ニ従フトイヘトモ、実ハ長岡ノ為ニ謀ルナリ、長岡藤孝一万五千ノ兵ヲ率イテ之ヲ攻ム、サレトモ大江越中・高屋駿河・近藤兵庫・石子紀伊・金屋伊豆・山口弾正・荒澤帯刀・赤井五郎左衛門・大村長門・氏家大和・杦山出羽・垣見筑後・白杦主税・横田傳大夫ノ輩、力ヲ尽シテ防戦ス、是以容易ニ墜チカタク、戦ヒ三日ニ及フ、間廿四日、松井佐渡守密ニ謀ヲメグラシ、沼田幸兵衛ヲシテ城ニ火ヲ放タシム、其虚ニ乗シテ之ヲ攻ム、一色氏敗績ス、今中山村ノ南ニ一色義道討死ノ墓アリ、義道ノ子義俊、中山城ヨリ遁レテ與謝郡弓木ノ城ニ拠リ、長岡藤孝ト戦フ、義俊ノ人トナリ勇猛ニシテ智略アリ、賢其光詮範ニ譲ラン、是以藤孝ノ力ニ及ヒカネ、遂ニ和ヲ求メテ其女ヲ之ニ妻ハセ、欺テ之ヲ殺ス、是時又沼田幸兵衛ノ事アリ、弓木条下ニ出スト>
●民業 男<農業三十九戸>、女<各夫業ニ従フ>