現在の舞鶴市東神崎・西神崎(ヒガシカンザキ・ニシカンザキ)。明治17年当時、戸数 203戸、社3戸、寺2戸、総計208戸、人数 男518口、女549口、総計1617口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後国加佐郡<東神崎村、西神崎村>
本村古時凡海郷ニ属シ、由良庄ノ部内タリ、古来ヨリ東西二部ニ分レ、各独立セシカ、其疆域 等互合錯雑シテ今遽ニ分割シ難シ、因テ東西ヲ合併シテ此誌ヲ作ル
●疆域 東北外洋ニ面シ、南ハ同郡白杦・油江・青井三村ト奥後山ヲ以テ界シ、西ハ大雲川中央ヲ以テ由良村ト界ス
●幅員 東西凡十五町、南北凡三町三十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十七里九町八間、宮津支庁ヨリ東南方凡三里、四隣南油江村へ八町三十四間<実測>、西由良村へ凡二十町三十間
●地勢 南方奥後山ヲ負ヒ、東北外洋ニ臨ミ、西ニ大雲川アリ、実ニ郡中ノ水郷ト謂フ可シ、土地概平坦ニシテ、東西二部ノ人家連檐シ居ヲ海浜ニ占ム、運輸極テ便薪炭乏シ
●地味 其色淡黒白砂ヲ混ス、其質下等、諸植物ニ適セス、水利モ不便ニシテ常ニ旱害アリ
●税地 畑<四拾四町七反七畝拾九歩>、宅地<九町七反三畝弐拾歩>、山<反別欠ク>、塩浜<拾弐町弐反四畝拾三歩>、総計<六拾六町七反五畝弐拾弐歩>
●字地 釜屋元(カマヤモト)<村ノ西北ニアリ、東西三十一間、南北五十六間>、石ノ戸<村ノ西南ニアリ、東西三十二間、南北三十八間>、水附(ミツヽキ)<同上、東西一町二十七間、南北一町五十一間>、惣野<同上、東西五十七間、南北一町三十三間>、濵頭<村ノ西北ニアリ、東西六町四十七間、南北一町十五間>、已上著名ノ字ヲ挙ク余ハ略ス
●貢租 地租<金弐百九拾三円三拾弐銭八厘>、山税<金壱円拾三銭三厘>、国税<金五拾弐円三拾弐銭>、総計<金三百四拾六円七拾八銭壱厘>
●戸数 本籍二百三戸<平民>、社三戸<村社一座、無格社二座>、寺二戸<禅宗>、総計二百八戸
●人数 男五百十八口<平民>、女五百四十九口<平民>、総計千六十七口
●舟車 日本形舩百四十八艘<五百石未満二百石以上一艘、二百石未満五十石以上四十六艘、五十石未満荷舩五十五艘、渡舩一艘、伝馬舩四十五艘>
●山 奥後山<高周欠ク、村ノ東南ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東ハ青井村ニ属シ、西南ハ油江村ニ属シ、北面ハ本村ニ属ス、雑木疎生ス、登路二条、一ハ村ノ西南字山ドラヨリ上ル昇リ凡十町四十間、易ナリ、一ハ村ノ東南字奥後ヨリ上ル昇リ六町十五間、険ナリ>
●川 大雲川<二等河ニ属ス、深所七尺、浅所三尺、広所四町余、狭所一町二十間、清ニシテ緩、南方油江村界ヨリ来リ、本村西境ヲ過キ北海ニ入ル、長七町五十間>、神崎渡<村往還ニ属ス、本村ヨリ五町十間、深所七尺、浅所三尺、広所四町余、狭所一町、村ノ西方大雲川下流ニアリ、渡舩一艘、私渡ナリ>
●道路 村道<南方油江村界ヨリ本村西方大雲川渡口ニ至ル、長四町、巾四尺>
●掲示場<本村西方字湊新畑ニアリ>
●社 湊十二神社<村社々地、東西五十間、南北一町、面積二千九百六十四坪、村ノ西ニアリ、大禍津日神・大直毘神・沫那藝神・沫那美神・伊豆能賣神、速佐須良比賣神・頰那藝神・頰那美神・国之水分神・天之水分神・天之久比奢母智神・国之久比奢母智神ヲ祭ル、古来ノ沿革詳ナラス、下同シ、祭日九月十三日、境内末社五座アリ>、水無月神社<社地東西二十九間、南北二十六間、面積六百五十三坪、村ノ西北ニアリ、瀬織津比咩命・速開津比咩命・気吹戸主命・速佐須良比咩命ヲ祭ル、祭日八月十一日>、竃神社<社地東西二十九間、南北二十間、面積六百五十五坪、村ノ東南ニアリ、火産霊神・興津彦神・興津姫神ヲ祭ル、創建年代詳ナラサレトモ、宝暦五年乙亥九月四日再建ス、祭日十月九日、境内末社二座アリ>
●寺 永春寺<境内東西二十七間、南北十九間、面積五百三十三坪、禅宗、本郡舞寉紺屋町桂林寺末、村ノ西南ニアリ、慶長五年庚子、僧良决開基創建シ、尓後衰微セシヲ、天保七年丙申、僧潜龍中興シ伽藍再建ス>、大明寺<境内東西十八間、南北十七間、面積三百五坪、禅宗、舞寉紺屋町桂林寺末、村ノ東南ニアリ、応永廿三年丙申、僧良哲開基創建ス、丹哥府志云、文禄元年朝鮮ノ役ニ、細川氏ノ将士神崎村ヨリ出帆ス、後ニ其戦死ノ者ノ為ニ伽藍ヲ建立ス、ヨツテ高麗山大明寺トイフト>
●学校 人民共立小学校一所<村ノ西方字石ノ戸ニアリ、生徒男九十五人、女三人>
●物産 食塩<九百八十石>、甘藷<一万三千百貫目>、香附子<四百二十貫目>、桐実<三十石>、櫨実<千九百貫目>、以上舞寉及ヒ丹波国福知山等ニ輸送ス
●民業 男<農ニシテ製塩スル者百戸、農ニシテ舩稼ヲ兼ヌル者八十戸、農ニシテ職工・雑業ノ者二十戸>、女<農ニシテ製塩ヲ兼ヌル者三百九十六人>