現在の宮津市由良(ユラ)。明治17年当時、戸数 419戸、社10戸、寺2戸、総計431戸、人数 男856口、女966口、総計1822口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後國加佐郡由良(ユラ)村
本村古時凡海郡ニ属シ、由良庄ノ部内タリ、尓後分合変遷ナシ
●彊域 東南ハ大雲川中央ヲ以テ同郡神崎村ニ対シ、西北ハ與謝郡脇村ト長尾峠ヲ以テ界シ、南ハ由良ヶ嶽ヲ以テ本郡和江・石浦両村ニ界シ、西南ハ長谷・上下漆原ノ三村ト又山ヲ以テ界シ、北ハ外洋ニ面フ
●幅員 東西凡十四町五間、南北凡八町、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡廿八里十八町九間、宮津支庁ヨリ東南方三里、四隣東神崎村へ凡二十町三十間、西北與謝郡脇村へ一里五十三間、東南本郡石浦村へ十八町三十九間五分
●地勢 南方由良ヶ嶽ヲ負ヒ、北方一帯外洋ニ枕ム、本村ハ実ニ郡ノ北端ニ位ス、土壌平坦人家ハ多ク海濱ニ沿フ、舟楫ノ利極テ便ナリ薪炭乏シ
●地味 其色淡赤、砂礫ヲ混ス、其質下等、稲梁ニ可ニシテ桑・茶ニ宜シカラス、水利ハ細流多ケレトモ、概ネ河身浅薄ニシテ用水ニ供スル者少シ、故ヲ以テ時々旱害ヲ蒙ムル事アリ
●税地 田<六拾壱丁八反六畝拾九歩>、畑<六拾壱丁弐反四畝廿壱歩>、宅地<弐拾丁八反四畝六歩>、山<反別欠ク>、藪地<壱丁壱反弐畝九歩>、塩浜<弐丁六反五畝弐歩>、総計<百三拾九丁七反弐畝廿七歩、外荒地五畝四歩、鍬下壱反弐畝壱歩>
●飛地 本村東南方石浦村之内田<三丁四反五畝拾三歩>、畑<五反五畝五歩>
●字地 森ヶ鼻<村ノ東南ニアリ、東西四十八間、南北一丁四十三間>、濵頭<村ノ東北ニアリ、東西六丁五十八間、南北一丁九間>、荒堀<村ノ西南ニアリ、下同シ、東西二丁四十三間、南北三十五間>、長畑<東西一丁四十五間、南北一丁十間>、熊野山<東西一丁十八間、南北四十三間>、上良(ウヘラ)<東西一丁十九間、南北五十五間>、愛宕下(アタゴシタ)<東西一丁廿五間、南北三十三間>、河原<東西一丁二十五間、南北廿五間>、鉢(ハチ)ヶ下(シタ)<東西四十間、南北二丁>、障子(シャウジ)ヶ平(ヒラ)<東西五十五間、南北一丁五十五間>、矢畱(ヤトメ)<村ノ西北ニアリ、下同シ、東西五十一間、南北一丁二十五間>、前田<東西一丁廿五間、南北一丁二十間>、岩穴<東西一丁五間、南北五十七間>、梅川<東西五十五間、南北二十間>、平野<東西一丁、南北四丁>、黒見(クロミ)<東西三十五間、南北二丁三十間>、別所<東西三十五間、南北四丁十間>、馬場<東西十三間、南北一丁>、以上著名ノ字ヲ挙ク、餘ハ省畧ニ従フ
●貢租 地租<金千弐百四拾円六拾五銭弐厘>、山税<金壱円廿壱銭壱厘>、国税<金弐百四拾四円八拾三銭>、総計<金千四百八拾六円六拾九銭三厘>
●戸数 本籍四百十九戸<士族一戸、平民四百十八戸>、社十戸<村社二座、無格社八座>、寺二戸<真言宗一宇、禅宗一宇>、総計四百三十一戸
●人数 男八百五十六口<士族四口、平民八百五十二口>、女九百六十六口<士族四口、平民九百六十二口>、総計千八百二十二口
●牛馬 牝牛七頭
●舟車 日本形舩百六艘<千石未満五百石以上二艘、五百石未満二百石以上一艘、二百石未満五十石以上二十九艘、五十石未満荷舩四十五艘、伝馬舩二十九艘>
●山 由良ヶ嶽<高周欠ク、下同シ、村ノ南方ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東南ハ石浦・和江・長谷ノ三村ニ属シ、西南ハ與謝郡脇村及ヒ本郡上・下漆原ノ両村ニ属シ、北面ハ本村ニ属ス、山脈東西ニ連亘ス、樹木生セス、登路一条、本村南方字河原ヨリ上ル昇リ二十一丁廿七間、険ナリ、渓水二条共ニ山間ヨリ発ス、一ヲ奈具川ト云フ、北流シテ海ニ入ル、一ヲ江川ト云フ、東南流シ大雲川ニ入ル>、磯山<村ノ西北隅ニアリ、嶺上ヨリ二分シ、西面ハ與謝郡脇村ニ属シ、東面ハ本村ニ属ス、山脈西南方由良ヶ嶽ニ連リ、東北ハ海ニ臨ミ、松茂生ス、登路一条、本村西方字梅川ヨリ上ル昇リ八丁、其道極テ険ナリ>
●川 大雲川<二等河ニ属ス、深所一丈五尺、浅所五尺、広所四丁、狭所一丁廿間、清ニシテ緩、南方石浦村界ヨリ来リ本村東境ヲ過キ海ニ入ル、長十丁余>、新川<本村南方由良ヶ嶽ヨリ発源シ、屈曲東流シ大雲川ニ入ル、巾三間、長十四丁五十六間、平時水無シ、霖雨ノ際暴漲ス、下同シ>、奈具川<同上ヨリ発源シ北流シテ海ニ入ル、長八丁、巾一間>、石𣘺<宮津往還ニ属ス、架シテ村ノ西方奈具川下流ニアリ、長一間半、巾一間>、石橋<同上、架シテ村ノ東南方新川ニアリ、長一間、巾五尺>
●道路 宮津道<西方與謝郡脇村境ヨリ南方本郡石津村界ニ至ル、長一里九丁三十九間半、巾二間、本村東方松原寺前ヨリ東ニ折レ、大雲川渡口ニ通スル支道アリ>
●堤塘 新川堤<新川ニ沿ヒ、本村字河原ヨリ起リ字江川ニ尽ク、長十四丁五十六間、馬踏一間半、堤敷三間>
●港 由良港<東西八丁、南北十丁、深干潮五寸ヨリ五尺ニ至ル、南ニ向フ、暗樵ナク出洲アリ、村ノ東方ニアリ、南北風ニ宜シク、東風ニ宜シカラス、一箇年出入舩数凡三百艘、内外ニシ輸出入物貨米凡三千五百石、塩凡六千五百俵、大小豆凡二百五十石、麦凡八百石、菜種凡二千三百石、麦麺凡六千五百俵、其他木材・竹尾・楮皮・串柿・種油・番茶・石炭・砂薬種・下駄木・蒟蒻玉・炭・櫨実・桐実等ノ類ナリ、修繕費用ハ民ニ属ス>
●嶋 桃島<東西凡三十間、南北凡三十五間、周回一丁四十八間、村ノ北ニアリ、海上直径十丁ヲ隔ツ、嶋上僅ニ小松ヲ生ス>
●社 熊野神社<村社々地、東西廿五間、南北十八間、面積四百五十三坪、村ノ中央ニアリ、櫛御氣神ヲ祭ル、古来沿革詳ナラス、以下同シ、相伝フ、正徳元年辛卯修繕セリ、祭日九月廿六日、境内末社一座アリ>、奈具神社<式内村社々地、東西廿五間、南北三十三間八分、面積八百四十五坪、村ノ南ニアリ、豊宇賀能賣命ヲ祭ル、弘化三年丙午三月再建ス、祭日九月十四日、境内老樹繁茂ス>、金刀比羅神社<社地四履欠ク、面積九十七坪、村ノ西北ニアリ、大物主神ヲ祭ル、文久二年壬戌八月勧請ス>、稲荷神社<社地四履欠ク、面積百十四坪、村ノ西北ニアリ、保食神ヲ祭ル、寛延三年庚午創建ス、境内末社一座アリ>、水無月神社<社地四履欠ク、面積三十坪、村ノ東南方ニアリ、祓戸四柱神ヲ祭ル、創建年代詳ナラス>、稲荷神社<社地四履欠ク、面積百九十三坪、村ノ東南方ニアリ、宇迦之御魂神ヲ祭ル、享保十年甲寅二月創建ス>、市杵嶋神社<社地四履欠ク、面積二十八坪、村ノ西南方ニアリ、市杵嶋姫神ヲ祭ル、創建年代詳ナラス>、稲荷神社<社地四履欠ク、面積百四十坪、村ノ西南方ニアリ、宇迦之御魂神ヲ祭ル、文久二年壬戌二月建立ス、境内末社二座アリ>、北野神社<社地四履欠ク、面積六十二坪、字北野御前ニアリ、菅原道真ヲ祭ル、創建年紀詳ナラス、境内末社一座アリ>、廣峰神社<社地四履欠ク、面積三十坪、村ノ西南ニアリ、速須佐男神ヲ祭ル、建立年代詳ナラス>
●寺 如意寺<境内東西廿五間、南北十六間半、面積四百十八坪、真言宗、本郡鹿原村金剛院末、村ノ中央ニアリ、里俗曰、用明天皇・皇子磨利子親王ノ草創ナリト、本寺元ト長福寺ト称セシヲ、享保五年庚子、領主ノ諱ヲ避ケ今ノ名ニ改ム>、松原寺<境内東西四十四間、南北三十二間、面積千百三坪、禅宗、本郡舞鶴紺屋町桂林寺末、村ノ東ニアリ、寛正六年乙酉八月、僧正益開基創建ス、其後衰頽セシヲ、享保十年乙巳五月、僧霊重中興ス>
●学校 人民共立小学校一所<本村ノ中央字上良(ウラ)ニアリ、生徒男九十六人、女十人>
●村会所 右校内ニ設ク
●郵便局 五等郵便局<本村ノ東方字安(アン)ノ上(ウへ)民宅中ニアリ>
●名勝 由良ヶ嶽<村ノ南方ニ峙立ス、即本郡第一ノ高嶺ニシテ、其形駿河ノ冨士ト云フ頂上、眺矚絶佳風光明媚ナリ>
●古跡 由良ノ戸<村ノ西方磯山ノ麓字岩穴海浜ヲ云フ、碑アリ、高八尺、巾四尺、天保十二年辛丑、領主牧野某之ヲ建ツ、其表面ニ云ヒト威若狭ノ小濵ニ遊ヒシカへサニ天橋立ヲ見ムトテ、丹后ノ由良戸ヲ舩ニテ渡リシニ、殊ニニハヨカリシカハ、好忠カ歌ヲ思出テ、由良ノ戸ニ梶ヲ絶シハ昔ニテ安ラニ渡ルケフノ楽シサ、ト口スサヒシヲ、此アタリシロシメス君聞シメシテ、碑ニ残サマホシト乞給フニ、紀国ニモ同名所アレハ、マトヘル人ノ為ニ、彼好忠ハ此国ノ様ニ成テ曽丹后ト世人ニヨハレシ事古書ニ見ユレハ成ヘシト、ハカリ侍ラテ白地ニ老筆ヲトリ侍ル也、穴恐々々、天保六年五月十三日<八十三叟>正四位下賀茂縣主季鷹、其裏面ニ云ク、我益斎先公之嘗亹々於由良戸之遺■也、偶観京人加茂季鷹国詩、有感於心並属其小■欲碑以伝之引未成、而先公捐館今公傷其志之不遂継督於季鷹、既而季鷹引或以進■刻、而建之因命臣逸記其顛末、如此天保十二年辛巳晩夏下澣臣野田逸謹識>
●物産 食塩<六百六十五石>、甘藷<四千貫目>、素麺<二千五百俵>、蜜柑<七百二十貫目>、以上丹波國福智山及ヒ丹後國宮津等ニ輸出ス
●民業 男<農ヲ業トスル者二百廿八戸、製塩ヲ兼ル者十七戸、工ヲ兼ル者十五戸>、女<農ヲ業トスル者十五人、製塩ヲナス者百九十五人>