新田というと、瀬戸内沿岸や太平洋側のような海浜を大規模に干拓してできたイメージがあるが、土目録を見る限り、田辺藩ではむしろ由良川流域(和江村23石、久田美村16石、弐ヶ村26石)や山間部(城屋村28石、真倉村15石)が多い。
「丹後国田辺領郷村高辻帳」(舞鶴市郷土資料館蔵 大滝家文書)には、9回にわけて村ごとに新田畑の開拓が記録されている。すなわち慶長検地から延享4年(1747)までの開発と、その後すなわち寛延元年(1748)から文化元年(1804)までの8回の新田(「開発見取場」)開発状況であるが、土目録の新田畑はこのうち第1回の延享4年(1747)までの分とほぼ一致している。つまり土目録の新田畑高のデータは延享4年の数字であることがわかる。
ところがこの年までの田辺藩全体の新田畑の合計(286.7石)は、田辺藩の総石高(35214.7石)のわずか0.86%に過ぎない。また同帳に表われる文化元年(1804)までの8回の新田畑開発を累計しても、567.6石で総石高の1.71%にしかならない。同帳に含まれない新田が存在した可能性はあるが、それにしても田辺藩の新田開発は非常に少ない。
幕末期に近づくと、海浜地帯を干拓した新宮凉庭の新宮新田や浜村の新田開発、伊佐津川や高野川尻の埋め立てが行われるが、これらはこの地図より後年のことになる。