引土町の年表

西暦和暦出来事
1339暦応2年己卯815丹後田辺比丘尼恵阿、円隆寺(字引土)に鰐口を寄進する
1659万治2年己亥47引土町にて火事起こる 家屋87軒焼失
1660万治3年庚子このころ、円隆寺(字引土)の縁起「慈慧山記」成立する
1727享保12年丁未626田辺朝代町火事 引土村類火、朝代町家数49軒・引土村同13軒焼失する
1732享保17年壬子93田辺大火 昼4ツ時より7ツ時まで延焼、引土村家数30余軒焼失、本行寺、朝代大明神、円隆寺本堂・塔・八幡宮・観音堂・薬師堂・理正院・成就院など類焼する
1746延享3年丙寅220田辺紺屋町・引土新町火事 紺屋町37軒・引土新町22軒焼失する
1766明和3年丙戌 ○城下町の大工数67人、そのうち引土町19人
1789寛政元年己酉11宣成、引土町利兵衛の孝養を賞して、鳥目を給する
1794寛政6年甲寅37辰上刻、引土町出火、44軒焼失する
1794寛政6年甲寅1229本行寺町(引土新町)出火、桂林寺門前より本行寺まで、両側家数26軒焼失する
1854嘉永7年
(安政元年)甲寅
1213引土村鋳物師金屋(国松)六左衛門、藩御用の西洋下曽根派6ポンド短熕(大砲)1梃を鋳造する(惣丈5尺9寸2分3厘5毛、玉径3寸1分5厘2毛、安政2・1・13同2梃目鋳造)(写真31)
1857安政4年丁巳819藩、昨年、白杉村横浪に築いた台場へ備えつけの大砲を引土村にて鋳立てるにつき、在方は申すに及ばず町方も相応に夫役を仰せつける 右につき町方大工・鍛冶・桶屋・左官のほか人足追々申しつける旨を達する
1857安政4年丁巳10藩、大砲鋳造御用につき古銑・鍋釜・鋤先を買い上げる間、不用の分を取り調べ引土村鋳物師六左衛門方へ差し出すよう達する
1857安政4年丁巳1213引土村金屋六左衛門、藩御用の三貫匁筒1梃鋳造する(安政5、五貫匁筒2梃鋳造)
1858安政5年戊午3藩、高野谷川筋に塵芥を捨てる儀は相成らない旨前々より申達あるところ、近ごろ引土町より竹屋町・寺内町裏川筋住家は勿論、脇町よりも夜中大橋へ持ち出して捨てる次第相聞え不埒の至りである 右川尻水戸筋近年掘り浚えても間もなく埋まり行き届き難い趣につき、向後、右川筋並びに北浜裏へ塵芥を捨てる者は処罰する この度、嶋崎徒人小屋前より稲荷境内までの間を塵芥捨て場に申しつけた故、月に2,3日掃除日を定め、銘々の家に積み置いた塵芥を町々人足をもってその日に右場所へ捨てることなどを達する
1861万延2年
(文久元年)辛酉
7引土村金屋六左衛門、藩御用のアメリカポンド初筒鋳造する
1863文久3年癸亥526引土村金屋六左衛門、藩御用のフランス筒2挺鋳造する(同年11月~慶応2・春、各種大砲7挺鋳造)
1863文久3年癸亥10藩、この度、引土町播磨屋宇兵衛へ軍用白焔硝製造申しつけ、右につき焔気ある家々を見回り、床下の土を家主の迷惑に及ぶ儀ないよう取らせるが、軍用の品ゆえその段勘弁致すべき旨を達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
2藩、先年より白焔硝製造を上林栄助そのほか福来村文左衛門・角助、引土町播磨屋卯兵衛などに申しつけて置いたが、当今の形勢にて焔硝多量入用につき、製造は郡方へ替え、上林栄助に出役仰せつけた旨を達する
1866慶応2年丙寅923引土村金屋六左衛門、藩御用の11ポンド半山臼砲真5挺鋳造する
1883明治16年癸未55真言宗智恩院(引土村、京都仁和寺末)、円隆寺と改称
1888明治21年戊子2舞鶴(朝代・引土新)を貸座敷免許区域に指定
1913大正2年癸丑4西山公園(舞鶴町字引土新)開設
1921大正10年辛酉210京都府立舞鶴中学校を中筋村字引土に設置認可
1931昭和6年辛未127舞鶴仏教会、皇軍武運長久祈願及び戦死者慰霊祭施行(舞鶴町字引土、円隆寺)
1949昭和24年己丑14市内中学校再編成により府立西舞鶴高等学校(家庭科を除く)字引土に移転、併設中学校は明倫小学校内へ移転
1951昭和26年辛卯717市議会、授産場設置条例制定の件可決(字引土に設置)
1951昭和26年辛卯9市、西授産場(字引土)新設
1954昭和29年甲午41舞鶴共済病院西舞鶴分院(字引土)、西舞鶴結核療養所と改称
1954昭和29年甲午4私立三鶴幼稚園(字引土)開設
「舞鶴市史年表」より

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