高野村の年表

西暦和暦出来事
1773安永2年癸巳 ○藩、由良川・高野川河口の浚渫費に当てるため、「水戸銭」という船荷課税を、当年から5か年の間実施する 船荷売買代銀札100匁につき3分ずつ徴収
1858安政5年戊午3藩、高野谷川筋に塵芥を捨てる儀は相成らない旨前々より申達あるところ、近ごろ引土町より竹屋町・寺内町裏川筋住家は勿論、脇町よりも夜中大橋へ持ち出して捨てる次第相聞え不埒の至りである 右川尻水戸筋近年掘り浚えても間もなく埋まり行き届き難い趣につき、向後、右川筋並びに北浜裏へ塵芥を捨てる者は処罰する この度、嶋崎徒人小屋前より稲荷境内までの間を塵芥捨て場に申しつけた故、月に2,3日掃除日を定め、銘々の家に積み置いた塵芥を町々人足をもってその日に右場所へ捨てることなどを達する
1867慶応3年丁卯6藩、高野谷川筋へ塵芥捨てる儀相成らないにつき、町々塵捨て箱相拵え溜れば人足にて捨てさすよう文久元・8申し達し、入用のうち銀札2貫匁下げ遣わし破損致せば修復すべきところ、その儀なく海川へ塵捨てる者ある趣に相聞え不埒である 町役人の心得違いより右に時宜に至るにつき、塵捨て箱急速に補修致すべき旨を達する
1897明治30年丁酉2舞鶴埋立株式会社発起(舞鶴町高野川尻・見樹山間海面埋立を計画)
1897明治30年丁酉1030大橋(舞鶴町、高野川)渡橋式(明治29・8流失)
1898明治31年戊戌58新橋(舞鶴町字竹屋、高野川)渡橋式(明治29・8流失)
1907明治40年丁未824豪雨のため由良川・与保呂川・高野川はじめ郡内各地の河川はん濫、大被害を受ける(最高水位、岡田下村字志高11.5m)
1909明治42年己酉41倉梯尋常小学校・与保呂尋常小学校・余内尋常小学校・中筋尋常小学校・高野尋常小学校・神崎尋常小学校に高等科を併置、それぞれ、尋常高等小学校と改称
1910明治43年庚戌221高野信用購買販売組合設立許可
1913大正2年癸丑1公設高野消防組発足
1913大正2年癸丑51府郡部会、高野川改修を可決
1922大正11年壬戌12加佐郡中部処女会創立(中舞鶴町・余内村・舞鶴町・中筋村・池内村・高野村・四所村)
1924大正13年甲子813宮津線列車煤煙により高野村字野村寺の民家7戸全焼
1925大正14年乙丑○大丹生丸運航開始(舞鶴町字竹屋高野川尻・四所村字大君・同吉田・同青井・同白杉・西大浦村字千歳・同大丹生・同浦入)
1930昭和5年庚午4加佐郡中部消防連合会結成(舞鶴町、中筋・高野・池内・余内・四所村)
1933昭和8年癸酉714大橋(舞鶴町、高野川)架替工事完成、渡初式
1933昭和8年癸酉9高野村「忠魂碑」(字女布大日山)建立
1933昭和8年癸酉岡田中村・与保呂村・高野村、京都府経済更生指定村となる
1934昭和9年甲戌7舞鶴町及びその周辺(舞鶴町、高野村、中筋村、余内村、四所村・池内村の一部)を都市計画区域に決定
1935昭和10年乙亥1029第1回舞鶴町外5か村(四所・高野・中筋・池内・余内村)合併協議会開く
1936昭和11年丙子81舞鶴町、四所村・高野村・中筋村・池内村・余内村を編入、舞鶴町役場位置を字北田辺三の丸(旧加佐郡役所跡)に変更
1937昭和12年丁丑6日出紡織(株)舞鶴第2工場(舞鶴町字公文名・京田・高野由里・女布)建設工事着工
1938昭和13年戊寅71日出紡織(株)舞鶴第2工場(舞鶴町字高野由里)操業開始
1941昭和16年辛巳41日出紡織(株)、企業統合により大和紡績株式会社となり、喜多工場を舞鶴人絹工場、高野工場を舞鶴第二工場と改称
1941昭和16年辛巳84舞鶴市児童拓殖訓練開催(4日間、高野国民学校)
1944昭和19年甲申1019舞鶴西部国民学校勤労動員出動式(明倫・余内・中筋・高野国民学校)
1945昭和20年乙酉111大和工業(株)舞鶴航空機工場を舞鶴高野工場と改称
1948昭和23年戊子525大和紡績(株)、高野工場を舞鶴工場と改称
1951昭和26年辛卯77新橋(字竹屋、高野川)改修、開通
1951昭和26年辛卯○現舞鶴市域内の8農地委員会解消、舞鶴市新中舞鶴・東大浦・西大浦・朝来・志楽・与保呂・倉梯・四所・高野・中筋・池内・余内、岡田上・岡田中・岡田下・八雲・神崎の17農業委員会発足
1955昭和30年乙未3高野川改修第3期工事完成(円隆寺橋・出雲谷橋間、延長300m)
1956昭和31年丙申119舞鶴市西農業共済組合設立(四所・高野・中筋・池内・余内農業共済組合合併)
「舞鶴市史年表」より

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