志楽組の年表

西暦和暦出来事
1646正保3年丙戌11藩、これより先、領内村々を池之内組・祖母谷組・志楽組・大浦組・中筋組・川口下組・川口中組・川口上組の八大庄屋組に編成、この月、各組大庄屋を任命する 大庄屋給米1人当たり年間米6石、村高100石につき米1斗4升1合7勺4才ずつ徴収してこれに充てる
1820文政3年庚辰9大波村、志楽組囲蔵入れ稗29石7斗を請け負い、当年より毎年6石1斗ずつ差し出す
1854嘉永7年
(安政元年)甲寅
6志楽組、多額の藩調達金の10か年間上納につき、組内村々一統申し合わせ、人びと心力を尽し倹約をもって取り続けるよう倹約規定を作る
1858安政5年戊午22志楽組大庄屋、宗門改めにつき、改め役人が2・5より東方へ出郷、2・6泉源寺村泊り、2・7判形取りが行われるから、例の通り心得るよう村々庄屋に通知する また、判形人は髪月代・衣類を質素清潔にし、大酒を飲み赤面体で罷り出ないよう注意を促す
1858安政5年戊午324藩、志楽組大庄屋に対して、学問所建替え入用につき、柱当て松(長さ1丈2尺、末口5寸5分)13本を大波上村より伐り出し、来る朔日までに揃え置くよう達する
1859安政6年己未827志楽組大庄屋、人形芝居1組に3ツ、4ツずつ御免に相成るにつき、小倉・登尾・田ノ口のほか望みの村あれば、若い者が不法の取り合い致し口論となる間、その段篤と申し達し置くよう通知する
1861万延2年
(文久元年)辛酉
528志楽組大庄屋、夏秋昼祭・夜祭とも8月15日の一日に郷中一統相定めるにつき、その段承知、心得違いのないよう達する
1864文久4年
(元治元年)甲子
26志楽組大庄屋、宗門改めにつき、改め役人が2・11より東方へ出郷、2・12泉源寺泊り、2・13判形であるから、例の通り心得るよう村々庄屋に通知する また、判形人は髪月代・衣類を質素清潔にし、大酒飲み赤面体で罷り出ないよう注意を促す
1864文久4年
(元治元年)甲子
213志楽組大庄屋、藩が福来村文左衛門・覚助へ軍用白焔硝製造を申しつけ、焔気ある家々を見回り床下の土を取らせるが、家主に迷惑の及ばぬよう致さすゆえ承知させ置くべき旨仰せ出されたことを達する
1864文久4年
(元治元年)甲子
726志楽組村々、来る晦日早朝揃いにて、兵糧米の京都運送人足を出頭さすよう仰せつけられる(京都にて米調達でき中止)
1864文久4年
(元治元年)甲子
1216志楽組大庄屋、吉坂村出張所入用につき入木を村々へ割りつけ、12・18までに干木にて吉坂村口へ差し出すよう達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
317志楽組大庄屋、藩より将軍進発のお供の用意おびただしく、追々いつ変事が相発するやも計り難き形勢につき、軍用手当として御用金を、下々小前の者を除き名指しをもって仰せつけられた旨を達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
閏54志楽組大庄屋、将軍進発につき藩主左右備えのため江戸表発駕の由、これにより武運長久の祈祷献上を三か所において致す旨伺い出たこと、村々にても明後6日、半日休日にて一同氏神へ参詣致し武運長久を祈ることを達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
閏527志楽組大庄屋、大坂表へ人数繰出しの儀決定ではないが両3日のうち相達しも計り難く、かねて心得罷りあるよう詰人夫の者に申しつけ置くことを仰せ出された旨達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
61志楽組大庄屋、明後3日7ツ時、大坂表へ藩役人出立に相成る間、かねての人足は明2日夕7ツ時出町致すよう達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
63志楽組大庄屋、夜祭・氏神祭礼の儀、鳴物など相用いず質素に取り行いたいと内々相願っていたところ、鳴物あるいは客来などしないよう相慎み、休日にて参詣致すぐらいは苦しからずとの内意があった旨達する
1867慶応3年丁卯58志楽組大庄屋、鎌鷺威しの儀、組中所持の鉄砲にて威し申したい段願い出のところ聞き届けに相成る間、4月より8月まで村々所持の筒にて威すよう達する
「舞鶴市史年表」より

関連する歴史の人物

関連する人物はいません。