志楽村の年表

西暦和暦出来事
709和銅2年己酉4加佐郡白楽(志楽)里が、大贄(山海産の貢物)として久己利魚腊(くこりうおのきたい)(カワハギの干物)1斗5升を上納したことが、藤原宮跡出土の木簡から分る
931承平元年辛卯○倭名抄(高山寺本)、加佐郡内の郷名を、志楽・椋橋・大内・田辺・凡海・志託・有道・川守・余戸の9郷記録する 同書の元和3年刊本は9郷のほかさらに神戸をあげている
1159平治元年己卯閏5志楽荘、鳥羽上皇の御願寺である宝荘巌院を本家、平清盛を領家と仰ぎ、年貢として米250石、8丈絹50疋を負担する
1195建久6年乙卯86丹後国志楽荘と伊根荘で、地頭の後藤左衛門尉基清、濫妨を働いたとして幕府に訴えられる
1219建保7年
(承久元年)己卯
923僧鏡円以下23名、阿弥陀三尊・三所権現の霊地であり「無縁の霊場」である志楽荘内の西願寺に、仏聖灯油料として田110歩・畠250歩を寄進する
1265文永2年乙丑11志楽荘、若狭国田井浦2町8反6歩を押領する
1322元享2年壬戌825右馬三郎、毛利経親の下知状により、志楽荘朝来村内景守名の年貢・公事を宛行われる
1333元弘3年
正慶2年癸酉
6吉田定恒、金剛院に禁制を発し、美福門院御願所である同院において志楽荘内の地頭下司等が自由に境内の木を伐採することを停止する
1341暦応4年辛巳104足利尊氏、西大寺に筑紫国竹野荘の替わりとして志楽荘春日部村を寄進する
1350観応元年庚寅1227足利尊氏、醍醐寺三宝院賢俊僧正との深い関係から、志楽荘朝来村地頭職を同寺に修造料所として寄進する
1351観応2年辛卯41田辺郷居住の河端兵衛三郎、志楽荘朝来村に乱入して濫妨を働き、幕府は守護上野頼兼に対して河端某の濫妨を停止するよう命じる
1351観応2年辛卯1017幕府、丹後守護仁木頼彰に対して、志楽荘朝来村における軍勢甲乙人等の濫妨を停止させる
1351観応2年辛卯1027三宅左衛門太夫入道、志楽荘春日部村に乱入して濫妨狼藉を働き、幕府、守護仁木頼彰に対して三宅某を荘内から追い出すよう命じる
1352正平7年
観応3年
(文和元年)壬辰
223志楽荘河部村地頭職、足利義詮の御内書によって醍醐寺三宝院賢俊に安堵される
1365貞治4年乙巳閏9丹後守護山名師義、西大寺領志楽荘春日部村内へ、伊勢神宮役夫工米徴収のための使者の入部を停止するよう命じる
1399応永6年己卯2西大寺、光明真言料所である志楽荘公文職について、守護被官人等の押領に対し幕府の御教書が出されても守護が遵行しないので、再度幕府に訴える
1418応永25年戊戌710足利義持、醍醐寺三宝院門跡領志楽荘朝来村について、守護の半済や無理押領を停止するよう自筆書状を三宝院満済に出す
1451宝徳3年辛未1226幕府、丹後守護一色義直に命じ、丹後国志楽荘について守護使不入地とさせる
1569永禄12年己巳619里村紹巴、これより先、若狭国熊川を経て小浜に至る この日、高浜祇園会見物・松尾寺参詣して丹後国志楽に入り、ここより舟にて蛇嶋へ上って逗留する(写真12)
1646正保3年丙戌11藩、これより先、領内村々を池之内組・祖母谷組・志楽組・大浦組・中筋組・川口下組・川口中組・川口上組の八大庄屋組に編成、この月、各組大庄屋を任命する 大庄屋給米1人当たり年間米6石、村高100石につき米1斗4升1合7勺4才ずつ徴収してこれに充てる
1733享保18年癸丑35辰ノ刻(午前8時)、大浦・志楽・祖母谷・池之内・中筋・川口下組内93か村の百姓3000余人、大内橋下の安久川原に集合、4ツ時(同10時)、魚屋町堀際まで行進して座り込む 暮方、本町・竹屋町・寺内町内へ移動して野宿する 一方、村々の願書(定免下げ、米・銀札拝借、中間給米上納免除ほか)は、大庄屋より代官に提出される(写真24)
1816文化13年丙子1藩、蚕種を志楽・大浦・祖母谷・池之内組に各7枚、中筋組に9枚を割りつけて養蚕を行わせる
1820文政3年庚辰9大波村、志楽組囲蔵入れ稗29石7斗を請け負い、当年より毎年6石1斗ずつ差し出す
1854嘉永7年
(安政元年)甲寅
6志楽組、多額の藩調達金の10か年間上納につき、組内村々一統申し合わせ、人びと心力を尽し倹約をもって取り続けるよう倹約規定を作る
1858安政5年戊午22志楽組大庄屋、宗門改めにつき、改め役人が2・5より東方へ出郷、2・6泉源寺村泊り、2・7判形取りが行われるから、例の通り心得るよう村々庄屋に通知する また、判形人は髪月代・衣類を質素清潔にし、大酒を飲み赤面体で罷り出ないよう注意を促す
1859安政6年己未827志楽組大庄屋、人形芝居1組に3ツ、4ツずつ御免に相成るにつき、小倉・登尾・田ノ口のほか望みの村あれば、若い者が不法の取り合い致し口論となる間、その段篤と申し達し置くよう通知する
1861万延2年
(文久元年)辛酉
528志楽組大庄屋、夏秋昼祭・夜祭とも8月15日の一日に郷中一統相定めるにつき、その段承知、心得違いのないよう達する
1864文久4年
(元治元年)甲子
26志楽組大庄屋、宗門改めにつき、改め役人が2・11より東方へ出郷、2・12泉源寺泊り、2・13判形であるから、例の通り心得るよう村々庄屋に通知する また、判形人は髪月代・衣類を質素清潔にし、大酒飲み赤面体で罷り出ないよう注意を促す
1864文久4年
(元治元年)甲子
213志楽組大庄屋、藩が福来村文左衛門・覚助へ軍用白焔硝製造を申しつけ、焔気ある家々を見回り床下の土を取らせるが、家主に迷惑の及ばぬよう致さすゆえ承知させ置くべき旨仰せ出されたことを達する
1864文久4年
(元治元年)甲子
726志楽組村々、来る晦日早朝揃いにて、兵糧米の京都運送人足を出頭さすよう仰せつけられる(京都にて米調達でき中止)
1864文久4年
(元治元年)甲子
1216志楽組大庄屋、吉坂村出張所入用につき入木を村々へ割りつけ、12・18までに干木にて吉坂村口へ差し出すよう達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
317志楽組大庄屋、藩より将軍進発のお供の用意おびただしく、追々いつ変事が相発するやも計り難き形勢につき、軍用手当として御用金を、下々小前の者を除き名指しをもって仰せつけられた旨を達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
閏54志楽組大庄屋、将軍進発につき藩主左右備えのため江戸表発駕の由、これにより武運長久の祈祷献上を三か所において致す旨伺い出たこと、村々にても明後6日、半日休日にて一同氏神へ参詣致し武運長久を祈ることを達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
閏527志楽組大庄屋、大坂表へ人数繰出しの儀決定ではないが両3日のうち相達しも計り難く、かねて心得罷りあるよう詰人夫の者に申しつけ置くことを仰せ出された旨達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
61志楽組大庄屋、明後3日7ツ時、大坂表へ藩役人出立に相成る間、かねての人足は明2日夕7ツ時出町致すよう達する
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
63志楽組大庄屋、夜祭・氏神祭礼の儀、鳴物など相用いず質素に取り行いたいと内々相願っていたところ、鳴物あるいは客来などしないよう相慎み、休日にて参詣致すぐらいは苦しからずとの内意があった旨達する
1867慶応3年丁卯58志楽組大庄屋、鎌鷺威しの儀、組中所持の鉄砲にて威し申したい段願い出のところ聞き届けに相成る間、4月より8月まで村々所持の筒にて威すよう達する
1877明治10年丁丑この年の学校
行永連区小学(行永校改称)・遵法校・含章校(志楽校分離)・順正小学校(順正校改称、公文名村に移転)
1891明治24年辛卯41舞鶴警察署志楽分署浜巡査駐在所設置
1897明治30年丁酉12鎮守府新市街設置に直接関係の余内・倉梯・志楽3村地区連合委員会を組織
1906明治39年丙午71新舞鶴町設置(倉梯村の内字北吸・浜・溝尻の全部、森・行永の一部及び志楽村の字市場全部と泉源寺の一部を分割)
1909明治42年己酉527新舞鶴町・志楽村「忠魂碑」(現四面山公園内)建立
1915大正4年乙卯10公設志楽消防組発足
1916大正5年丙辰10大阪電灯(株)舞鶴支店、志楽村、与保呂村、倉梯村字堂奥・多門院、神崎村、東雲村、丸八江村、岡田上村、岡田下村へ電灯供給開始
1920大正9年庚申41道路法改正による国道34号(京都市・新舞鶴町間)、同35号(志楽村・新舞鶴町間)の各線認可
1938昭和13年戊寅81東舞鶴市設置(中舞鶴町・新舞鶴町・倉梯村・与保呂村・志楽村合併)
1943昭和18年癸未928舞鶴市東森林組合成立(旧中舞鶴町・新舞鶴町・倉梯村・与保呂村・志楽村内の29か字)
1951昭和26年辛卯○現舞鶴市域内の8農地委員会解消、舞鶴市新中舞鶴・東大浦・西大浦・朝来・志楽・与保呂・倉梯・四所・高野・中筋・池内・余内、岡田上・岡田中・岡田下・八雲・神崎の17農業委員会発足
1956昭和31年丙申24舞鶴市東農業共済組合設立(新中・倉梯・与保呂・志楽・東大浦・西大浦農業共済組合合併)
「舞鶴市史年表」より

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