志高村の年表

西暦和暦出来事
BC7000年ころ縄文早期志高遺跡=縄文土器出土(’80~’86度発掘調査、以下同遺跡は同年度調査)
BC5000年ころ縄文前期志高遺跡=前期初頭の炉跡5基・中葉の竪穴式住居跡1基・後葉の竪穴式住居跡1基と炉跡2基を検出、縄文土器(羽島下層Ⅱ式・北白川下層Ⅰ式・同Ⅱ式・同Ⅲ式・大歳山式)・石器出土
BC300年ころ弥生前期志高遺跡=円形柱穴群検出、弥生土器出土
BC100年ころ弥生中期志高遺跡=竪穴式住居跡12基・方形周溝墓11基・貼り石墓3基検出、弥生土器・石器・管玉出土
AD100年ころ弥生後期志高遺跡=竪穴式住居跡2基・掘立柱建物跡3棟検出、弥生土器出土
300年ころ古墳前期志高遺跡=竪穴式住居跡12基・柱穴群・方形周溝墓1基検出、土師器・装身具・小型仿製鏡1点出土
400年ころ古墳中期志高遺跡=竪穴式住居跡2基検出
500年ころ古墳後期志高遺跡=竪穴式住居跡14基(7世紀代)検出
710和銅3年庚戌平城奠都以後、霊亀元年(715)里を郷に改称以前のことか、加佐郡志宅(志高)里の猪食部装が白米5斗を上納していることが、平常宮跡出土の木簡から分る
851嘉祥4年
(仁寿元年)辛未
(9世紀ごろ)村上天皇の女御、志高荘を山城国広隆寺の薬師如来の燃灯料に寄進する
1306嘉元4年丙午418志高荘、近江国馬杉荘とともに広隆寺桂宮院の修造料所に充てられる
1715正徳5年乙未6大川・久田美・桑飼下・由里・桑飼上村庄屋および志高村年寄、由良川・加古川直通舟運の開発により、道広げ普請のための田畑潰れ、川除けのための川端の藪・桑伐払い、船引人足雇いのための耕作妨げ、鮭簗立ての停止、船会所・蔵敷地の皆無など、村々の支障を大坂町奉行(カ)に訴える
1814文化11年甲戌28伊能忠敬ら、測量のため宮津藩河守より当藩に入る この日、志高村泊り
1873明治6年癸酉この年設立された学校
明倫校(北田辺町明倫館跡)・中山校(中山村祥雲寺)・順正校(七日市村西光寺)・志高校(志高村宏玄寺観音堂)・神崎校(西神崎村永春寺)・共立校(西方寺村上野弥太郎宅)・漆原校(上漆原村天然寺)・行永校(行永村怡雲庵)・福井黌(下福井村)・立敬舎(倉谷村心学道場立敬舎跡)・横山校(今田村倭文神社舞堂及び別所村安養寺跡)・登尾校(登尾村椿長九郎持家)・大波校(大波上村沖安重右衛門持家)・遵法校(泉源寺村智性院)・含章校(鹿原村荒神籠堂)・陽明校(城屋村)・鸕渓校(桑飼上村荘厳寺)
1905明治38年乙巳岡田下村志高・久田美両小学校基本財産の造林計画を各区に設定
1907明治40年丁未824豪雨のため由良川・与保呂川・高野川はじめ郡内各地の河川はん濫、大被害を受ける(最高水位、岡田下村字志高11.5m)
1909明治42年己酉729志高信用組合(岡田下村字志高)設立認可
1909明治42年己酉112岡田下村字志高耕地整理工事着工(大正2・2・15完了)
1911明治44年辛亥430岡田下村久田美尋常高等小学校・志高尋常小学校併合、岡田下尋常高等小学校と改称
1913大正2年癸丑○由良川改修工事開始(明治44末)、岡田下村字志高舟戸の全戸移転完了
1917大正6年丁巳岡田上・岡田中・岡田下3か村組合立隔離病舎設置(岡田下村字志高)
1951昭和26年辛卯8河守農業高等学校岡田分校、独立校舎(字志高、現加佐分室)完成
1957昭和32年丁酉527市役所加佐分室を加佐町役場跡(字志高)設置
「舞鶴市史年表」より

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