松尾村の年表

西暦和暦出来事
1101康和3年辛巳(12世紀前半)現在三十三所観音霊場第二十九番松尾寺ついて、三井寺の行尊の三十三所巡礼記では十六番、同じく覚忠のそれでは十七番とする
1190建久元年庚戌建久年中(~1199)に、快慶、深沙大将・執金剛神(金剛院)、阿弥陀如来坐像(松尾寺)、地蔵菩薩坐像(宮津市如意寺)を作る
1307徳治2年丁未春、禅僧一山一寧、松尾寺の絹本著色如意輪観音像に賛文を墨書する
1308徳治3年
(延慶元年)戊申
827「松尾寺再興敬白文」、永仁6年(1298)の火災後に再建された落慶供養にあたり草される
1376永和2年丙辰松尾寺木造阿弥陀如来坐像(南北朝期)、左腰部像内に墨書銘をのこす
1492延徳4年壬子321法印権大僧都智海、松尾寺五大明王図の紙背貼紙に墨書をのこす
1524大永4年甲申1115松尾寺本堂再興の勧進文に願主榎本坊盛順・行人染筆、鏡尊坊乗秀行年六十四と記す
1524大永4年甲申1115鏡尊坊乗秀、願主となり松尾寺の3鋳目に当たる梵鐘を鋳造する
1536天文5年丙申3比丘尼善勝の所望により、松尾寺縁起を主にした「西国三十三所巡礼勧進状」書写される
1542天文11年壬寅37松尾寺不動院乗海、「西国三十三所巡礼勧進状」に別筆で「本尊寄進之当寺不動院乗海」と奥書する
1556弘治2年丙辰5丹後一宮大聖院権大僧都憲海、紙本不動明王二童子像を描く 松尾寺伝蔵
1569永禄12年己巳619里村紹巴、これより先、若狭国熊川を経て小浜に至る この日、高浜祇園会見物・松尾寺参詣して丹後国志楽に入り、ここより舟にて蛇嶋へ上って逗留する(写真12)
1630寛永7年庚午816松尾寺、午ノ時雷火、本堂全焼する
1649慶安2年己丑2松尾寺遍明院主真祐、本願主となり四鋳目に当たる梵鐘を鋳造する
1651慶安4年辛卯松尾寺、仏舞道具並びに宮殿鰐口を調達し、また、神明社・弁才天を建立する
1704元禄17年
(宝永元年)甲申
宝永・正徳年中(~1716)に、松尾寺仁王門(府指定文化財)建立される
1705宝永2年乙酉松尾寺地蔵菩薩坐像(市指定文化財)、伊勢国富山喜右衛門夫婦施主となり修理される(写真23)
1716正徳6年
(享保元年)丙申
33松尾寺出火、本堂焼失する
1770明和7年庚寅6大干ばつ 藩主、松尾寺奥の院にて雨乞い祈祷する
1802享和2年壬戌 ○松尾寺経蔵(府指定文化財)、田辺城下の高橋孫三郎を棟梁として建立される
1832天保3年壬辰726藩、日照り続きにつき、朝代社・知恩院・大川社において、この日晩より28日まで雨乞いの祈祷を行うよう達する(松尾寺にても五穀成就・雨乞い祈祷執行申達)
1865元治2年
(慶応元年)乙丑
閏517藩、当節京都並びに近国へ浮浪の徒が潜入しているとの風聞につき、領分境番所なおまた見張り厳しく吟味する故ひときわ厳重に相心得、昨年7月・当5月中の触れ通り堅く相守ること、もし胡乱な者の徘徊を見逃し訴え出ないときは在町役人の越度たるべく、町方・市場・中山村旅籠屋職並びに松尾村順礼宿致す者は別して心得申すべき旨を達する
1879明治12年己卯626青葉神社(青葉山西の峯)の所有につき若狭国大飯郡今寺村と松尾寺の争論起こる
1884明治17年甲申116松尾寺(松尾村)堂宇など焼失
1884明治17年甲申222松尾村・大飯郡今寺村(福井県)境界につき、両府県より内務卿へ伺
1888明治21年戊子526松尾村・福井県大飯郡今寺村間の国界並びに村界所有権争論解決する(明治17・2以来争論)
1909明治42年己酉41志楽尋常小学校に高等科併置、志楽尋常高等小学校(志楽村字小倉)と改称、松尾校を松尾分教場と改称
1943昭和18年癸未1221松尾寺駅・朝来側線竣工(松尾寺駅・第三海軍火薬廠間)
1951昭和26年辛卯123松尾寺駅、福知山鉄道管理局所属に復帰
1951昭和26年辛卯11国鉄松尾寺駅・日本板硝子(株)舞鶴工場間引込線竣工(旧第三海軍火薬廠鉄道側線利用)
1952昭和27年壬辰1122松尾寺の普賢延命像(1幅)国宝に指定
1955昭和30年乙未811舞鶴市勤労者消費生活協同組合(生協)結成、松尾百貨店にて開店
1964昭和39年甲辰331志楽小学校松尾分校廃止
「舞鶴市史年表」より

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