本資料は、近世後期田辺藩領伊佐津村の御用日記である。御用日記が含まれる「伊佐津村川北家文書」(館古六二五)は、京都府立京都学・歴彩館所蔵である。これは伊佐津村の庄屋であった川北藤右衛門家に伝来した文書群で、18世紀中期から大正期まで総点数398点である(文書解題)。
御用日記は四冊存在し、いずれも川北藤右衛門が作成したと記される。各冊の記載年は、①「御用日記附覚帳」(川北家文書1)、寛政5年(1793)正月~寛政8年4月
②「御用日記覚帳」(同2)、文政5年(1822)正月~文政6年正月7日
③「御用日記覚帳」(同3)、文政6年正月~文政7年正月
④「御用日記覚帳」(同4)、天保3年(1832)5月朔日~天保4年2月
②③は連続しているが、全体で40年間の開きがあることから、複数人で記された可能性もある。
①「御用日記附覚帳」寛政5、6年の2年分の翻刻を掲載した。記載形式は、数行の日記部分、奉行所への「奉願口上覚」、触や廻状の写し部分があり、2月25日付近に「願書之儀も書留有候」「御用廻状書留日記帳」とあり、いわゆる御用留・願書留の性格も持つ。
内容については、伊佐津村をめぐる様々な記事があり、田辺城下近郊村落の興味深い記録といえる。特に、正月12日の藩主の青谷山鹿狩では、村から人足を差し出し、19疋の鹿を仕留め、15疋下賜されたことが分かる。その青谷山は伊佐津村の肥草や薪採集の入会山であったが、4月に倉谷村50人に草苅を妨害され、争論に発展している。
また藩主一族や藩士などの乳母募集が多く、12月には「讃岐守様御乳持御入用」として、「御城下近キ村方之者相除」き、「乳沢山ニ有之実体成者御望」、少々不調法でもよいという触が出ており、当時の武士の乳児養育に関する実態がうかがえる。
出典:京都府立大学文化遺産叢書14『舞鶴・京丹後地域の文化遺産』109-141頁、2018