川口上組の年表

西暦和暦出来事
1646正保3年丙戌11藩、これより先、領内村々を池之内組・祖母谷組・志楽組・大浦組・中筋組・川口下組・川口中組・川口上組の八大庄屋組に編成、この月、各組大庄屋を任命する 大庄屋給米1人当たり年間米6石、村高100石につき米1斗4升1合7勺4才ずつ徴収してこれに充てる
1699元禄12年2261月、江戸藩邸焼失につき、滝ヶ宇呂村より用材搬出する 人足、川口上組122人出役
1719享保4年己亥128夜、有路組(川口上組)13か村百姓、同組大庄屋の悪事を書き立て、三方台にのせて大手門・藩札場に置く 藩、あて名のない書付として取り上げず
1733享保18年癸丑37川口上・同中組村々百姓、城下へ押し寄せ魚屋町堀際に座り込む 藩が村々の願いを聞き届ける旨申し渡し、帰村
1733享保18年癸丑621川口上組大庄屋、大庄屋預かり米冬・春納め分の上納に応じない、組内2ヶ村百姓16人を藩に訴える
1737元文2年丁巳9これより先、(南北)有路村高瀬船持、由良・神崎村川船積荷の船継ぎにつき藩へ訴える 川口上組・同下組大庄屋の取扱いにより双方和談、登り荷は残らず二ヶ村河原にて有路高瀬船が積み請けること、由良・神崎の塩荷船は福知山まで積み登りうること、船継ぎ場での下り荷の3分の2は由良・神崎船、3分の1は有路船が積み請けることなどの1札を取り交わす
1802享和2年壬戌6大庄屋中、近年来、虚無僧多く入り込み不法のことを申して村々庄屋難渋につき、中筋組・川口上組大庄屋が惣代となり出京
1860安政7年
(万延元年)庚申
川口上組有路・二ヶ村辺において、百姓たち、不穏な動きを起こす
「舞鶴市史年表」より

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