川口中組の年表

西暦和暦出来事
1646正保3年丙戌11藩、これより先、領内村々を池之内組・祖母谷組・志楽組・大浦組・中筋組・川口下組・川口中組・川口上組の八大庄屋組に編成、この月、各組大庄屋を任命する 大庄屋給米1人当たり年間米6石、村高100石につき米1斗4升1合7勺4才ずつ徴収してこれに充てる
1683天和3年癸亥721藩、川口中組15か村の百姓救恤のため、先規の定免を三か年間引き下げる旨達する
1727享保12年丁未18藩、これより先、家督分けを堅く禁じると申し渡す この日、川口中組初寄合にて大庄屋より申達
1732享保17年壬子521藩、川口中組において蚕改めを実施する
1732享保17年壬子810藩家老、野成見分のため巡在する この日、川口中組見分(カ)
1734享保19年甲寅829藩家老野成見分 この日、川口中組見分(カ)
1735享保20年乙卯728藩家老野方見分 この日、川口中組見分(カ)
1784天明4年甲辰1川口中組諸村において、隣在の非人(乞食)40~100人ばかりが、毎晩食事を要求し米麦を貰い歩く
1794寛政6年甲寅82藩野形奉行、野形見分のため巡在する この日、川口中組見分(カ)
1845弘化2年乙巳 ○川口中組14か村、各村ごとに囲蔵(救蔵・郷蔵)を新設する
1854嘉永7年
(安政元年)甲寅
216川口中組大庄屋、来る2・21の大庄屋宅における宗門改めにつき、諸指示事項とともに、改め済み悦びとして休日を取ったり、酒迎をしたりしないこと、改め当日は諸商人の立入りを差し止めること、その他を村々庄屋に達する
1854嘉永7年
(安政元年)甲寅
226川口中組大庄屋、心学先生の道話が2・晦日冨室村、3・1長谷村で開講されるので最寄りの村々は聴聞に罷り出るよう達する
1863文久3年癸亥7藩、海岸手当筋の儀につき台場を築造致すため、その入用人足5万人を在町に申しつける 7・24川口中組、嶋崎台場へ出役する
1864文久4年
(元治元年)甲子
721川口中組村々、来る23・24日、北有路村番所へ新拝借鉄砲36挺持参にて相詰めるよう仰せつけられる
1864文久4年
(元治元年)甲子
724川口中組村々、京都行き軍人足74人を、来る27日明け6ツ時役所へ出頭さすよう仰せつけられる
「舞鶴市史年表」より

関連する歴史の人物

関連する人物はいません。