倉谷村の年表

西暦和暦出来事
500年ころ古墳後期倉谷丸山古墳(2号墳)(’90・11発掘調査)
1602慶長7年壬寅726倉谷村、検地が施行される 奉行、井上次郎助・大橋左京
1694元禄7年甲戌藩、倉谷村の定免を七ツ七分(77%)とする(以後、廃藩まで継続)
1739元文4年己未520倉谷村・大内町火事 30軒余焼失する
1774安永3年甲午4「丹後田辺倉谷村住 瓦屋 大月佐右衛門作」とへら書した唐獅子鬼瓦が智恩寺(宮津市字文珠)山門に用いられている(倉谷瓦の最古年銘)
1811文化8年辛未613倉谷・福来・上安久・下安久・和田・長浜・余部上・同下村役人中、山城国愛宕神社成徳院に対し、近来諸国の勧化札が多く入り込み、古来の御免札以外は領主に差し止められたので、配札を当年より断る旨通知する
1814文化11年甲戌18倉谷村大泉寺前溜池土手普請、同村所属池之内組懸りとして、同組大庄屋、その人足1000人を組内諸村に割りつける
1815文化12年乙亥118倉谷村および万願寺村溜池普請、両村所属池之内組懸りとして、同組大庄屋、その人足2000人を組内諸村に割りつける
1835天保6年乙未倉谷村、農作物・山林木の窃盗取締りを中心とした村掟を定める
1848嘉永元年戊申326藩、去る弘化2・11百姓にて町人体の職・商いを本業と致す儀は向後無用の旨を在方に達し置いた書面で、市場・中山村は前々より仕来りの通り相心得べきと達したが、倉谷村町分の儀も前々より村方とは別に相立つにつき、右両村に准じ申すべしと令する
1848嘉永元年戊申923池之内組大庄屋、白焔硝道具を倉谷村焔硝蔵より天台村へ持ち運ぶ人足15人を、福来・倉谷村に割りつける
1873明治6年癸酉この年設立された学校
明倫校(北田辺町明倫館跡)・中山校(中山村祥雲寺)・順正校(七日市村西光寺)・志高校(志高村宏玄寺観音堂)・神崎校(西神崎村永春寺)・共立校(西方寺村上野弥太郎宅)・漆原校(上漆原村天然寺)・行永校(行永村怡雲庵)・福井黌(下福井村)・立敬舎(倉谷村心学道場立敬舎跡)・横山校(今田村倭文神社舞堂及び別所村安養寺跡)・登尾校(登尾村椿長九郎持家)・大波校(大波上村沖安重右衛門持家)・遵法校(泉源寺村智性院)・含章校(鹿原村荒神籠堂)・陽明校(城屋村)・鸕渓校(桑飼上村荘厳寺)
1876明治9年丙子この年設立された学校
三浜校(三浜村海蔵寺)・余部校(余部下村民家)・明心校(倉谷村立敬舎改称)・志楽校(小倉村、遵法校・含章校合併)・田井校分校(野原)・栃葉校(共立校より分離)・四か村(和江村・中山村・水間村・下東村)組合小学校(中山校改称)・陽明小学校(陽明校改称)
1897明治30年丁酉1122舞鶴要塞砲兵大隊第1中隊、業務開始(余内村字倉谷、東山寺)
1900明治33年庚子919舞鶴町長、余内村のうち榎峠以南の上安・上安久・下安久・清道・天台・福来・倉谷・円満寺を同町に合併したい旨府へ出願
1915大正4年乙卯9大阪電灯(株)舞鶴支店、余内村字倉谷へ電力供給開始
1940昭和15年庚辰○舞鶴海軍工廠第二造兵部建設用地(舞鶴市字倉谷ほか)買収
1941昭和16年辛巳○舞鶴海軍工廠第二造兵部(舞鶴市字倉谷外)・第三海軍火薬廠(朝来村字朝来中外)・舞鶴海兵団第二兵舎(東舞鶴市字泉源寺)建設用地買収
1943昭和18年癸未225舞鶴暁星実科女学校(舞鶴市字倉谷)閉校(海軍、校地買収)
1943昭和18年癸未51舞鶴海軍工廠第二造兵部(字倉谷)設置
1943昭和18年癸未85舞鶴倉谷側線(舞鶴駅・海軍工廠第二造兵部間)、竣工
1946昭和21年丙戌41旧海軍工廠第二造兵部(字倉谷)、飯野産業(株)舞鶴造船所工作部器具課工場となる
1947昭和22年丁亥21飯野産業(株)舞鶴造船所工作部器具課工場(字倉谷)、飯野産業(株)舞鶴車両製作所となる
1949昭和24年己丑1中学校再編成により城南中学校を字倉谷に変更、これに反対し同校区で父兄大会を開く
1950昭和25年庚寅120日出化学工業株式会社舞鶴工場(字倉谷)地鎮祭(旧海軍工廠第二造兵部の一部譲渡)
1951昭和26年辛卯3私立東山保育園(字倉谷)開設
1952昭和27年壬辰45城南中学校新校舎(字京田、旧軍用地跡)竣工(倉谷より移転)
1952昭和27年壬辰51府、舞鶴木工補導所(字倉谷)設置
1953昭和28年癸巳515舞鶴赤十字病院(字倉谷)開院
1958昭和33戊戌71京都府舞鶴職業訓練所(字倉谷)設置
「舞鶴市史年表」より

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