池之内組の年表

西暦和暦出来事
1646正保3年丙戌11藩、これより先、領内村々を池之内組・祖母谷組・志楽組・大浦組・中筋組・川口下組・川口中組・川口上組の八大庄屋組に編成、この月、各組大庄屋を任命する 大庄屋給米1人当たり年間米6石、村高100石につき米1斗4升1合7勺4才ずつ徴収してこれに充てる
1733享保18年癸丑1中筋・祖母谷・池之内組村々、去年の大悪作につき百姓の存念を訴えるべく、折々寄り合い談合する
1733享保18年癸丑35辰ノ刻(午前8時)、大浦・志楽・祖母谷・池之内・中筋・川口下組内93か村の百姓3000余人、大内橋下の安久川原に集合、4ツ時(同10時)、魚屋町堀際まで行進して座り込む 暮方、本町・竹屋町・寺内町内へ移動して野宿する 一方、村々の願書(定免下げ、米・銀札拝借、中間給米上納免除ほか)は、大庄屋より代官に提出される(写真24)
1778安永7年戊戌111池之内組村々、今田村青谷山の立山(藩直轄山)での松植えに出役する
1812文化9年壬申214福来村溜池普請、同村所属池之内組懸りとしてその人足、組内村々より出役する(2・21再出役)
1812文化9年壬申818今田村溜池普請、同村所属池之内組懸りとしてその人足、組内村々より出役する(9・6、10・18、10・19出役)
1813文化10年癸酉42池之内組大庄屋、当組割当て先納銀3月分と同高を4月分として上納する
1813文化10年癸酉103池之内組大庄屋、操り芝居を組内村々半日休みとして見物するよう達する
1814文化11年甲戌18倉谷村大泉寺前溜池土手普請、同村所属池之内組懸りとして、同組大庄屋、その人足1000人を組内諸村に割りつける
1815文化12年乙亥118倉谷村および万願寺村溜池普請、両村所属池之内組懸りとして、同組大庄屋、その人足2000人を組内諸村に割りつける
1816文化13年丙子1藩、蚕種を志楽・大浦・祖母谷・池之内組に各7枚、中筋組に9枚を割りつけて養蚕を行わせる
1816文化13年丙子214池之内組大庄屋、東方四大庄屋組の宗門改めにつき、2・20より改め役人が出郷、当組は2・20大庄屋宅で施行される旨を村々に通知する
1816文化13年丙子313池之内組大庄屋、藩庁に報告の故、櫨苗を村々が2、3本ずつでも買うよう各村庄屋へ申し入れる
1816文化13年丙子415田辺城水道普請行われる 人足、中筋組150人・池之内組110人・祖母谷組40人
1816文化13年丙子62池之内組大庄屋、当組割当て先納銀6月分を上納する
1816文化13年丙子1011藩、池之内組村々に、来る10・13今田村立山の杉植え人足の出役を申しつける
1820文政3年庚辰912池之内組大庄屋、囲蔵の貯穀につき、村々へ蔵入れ米・稗の見込み石数を取り調べるよう達する
1820文政3年庚辰11池之内組、境谷村切山裾に同組囲蔵を完成する
1821文政4年辛巳2池之内組大庄屋、組内百姓35人の京都・丹波・但馬・若狭辺への当年限りの他所稼ぎ願を差し出す(毎年閏1月ないし2月出願)
1822文政5年壬午3池之内組、文政4年分として囲蔵入れ稗71石9斗4升を貯穀する
1828文政11年戊子127池之内組大庄屋、宗門改めにつき、当年は改め役人出郷致し、大庄屋宅で施行すると仰せ出された旨を村々に通知するか(宗門大改め
1828文政11年戊子23池之内組大庄屋、当組の宗門改めが来る2・7に行われる旨を村々庄屋へ通知する
1829文政12年己丑612池之内組大庄屋、当組割当て先納銀6月分を上納する
1829文政12年己丑713池之内組大庄屋、盆中に踊をしても思いつきの浴衣・頭巾の着用は相成らない旨、村々役人・組頭より申しつけるよう達する
1830文政13年
(天保元年)庚寅
46池之内組大庄屋、村々に伊勢参りの者が先月停止を仰せ出されるまでに幾人あったか、早々取り調べ申し出るようにとの藩の達しを通知する
1830文政13年
(天保元年)庚寅
62池之内組大庄屋、当組割当て先納銀6月分を上納する(7・2、8・2各月分上納)
1831天保2年辛卯58池之内組大庄屋、河辺観音寺普請のための富興行に、村々寄進の志をもって世話なさるべくと通知する
1831天保2年辛卯713池之内組大庄屋、盆中に踊をしても浴衣・絹羽織・足袋などの着用は相成らない間、村々この段とくと申し諭すよう達する
1834天保5年甲午211池之内組宗門大改め
1835天保6年乙未3今田村溜池普請、同村所属池之内組懸りとして、同組大庄屋、その人足500人を組内村々に割りつける
1836天保7年丙申523池之内組、雨天続きにつき天王社において五穀成就の護摩修行、村々1日休日として参詣する(史料)
1836天保7年丙申620池之内組、五穀成就・病難退散のため、村々1日休日として各村神社に参詣する
1836天保7年丙申1015池之内組大庄屋、組内白滝・岸谷・上根・寺田村の晩田種籾を世話してくれるよう村々に頼む
1836天保7年丙申1217池之内組大庄屋、村々に村内の難渋者を取り調べ報告させる
1837天保8年丁酉413池之内組大庄屋、池ノ内・堀村より岸谷村まで、木の芽・草摘み採りに入り込むことを、この日より許可する(他組は5日間限り)
1838天保9年戊戌18池之内組大庄屋、村々に去る飢饉の救い施米有志者を書付で報告させる
1838天保9年戊戌329池之内組大庄屋、巡見使来藩につき、村々出人足・駕籠人足・荷物持人足の名前を、書付にて明日中に差し出すよう組内村々へ達する
1838天保9年戊戌712池之内組大庄屋、村々盆中の踊停止を仰せつけられた間、心得違いの者のないよう達する
1839天保10年己亥912藩、池内谷にて狂言様催しの風聞がある間、心得違いのないよう申しつくべき旨を池之内組大庄屋に達する
1840天保11年庚子212池之内組大庄屋、来る2・20の大庄屋宅における宗門改めに、判人の者が玉糸入り着物・銀細工物・絹帯など着飾って罷り出ないよう、村々庄屋へ注意を促す
1840天保11年庚子8藩、これより先、村々に前年の桐実生産高取調べを申しつけていたが、池之内組大庄屋、組内村々合計449石と報告する
1848嘉永元年戊申923池之内組大庄屋、白焔硝道具を倉谷村焔硝蔵より天台村へ持ち運ぶ人足15人を、福来・倉谷村に割りつける
1849嘉永2年己酉1213池之内組大庄屋、当年が不作であったため、翌3年1か年間に限った倹約規定を作って村々に達する
1860安政7年
(万延元年)庚申
615池之内組大庄屋、村役人に村内で糸職(製糸業)を希望する者があれば、取り調べて申し出るよう達する
「舞鶴市史年表」より

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