竹屋町の年表

西暦和暦出来事
1733享保18年癸丑35辰ノ刻(午前8時)、大浦・志楽・祖母谷・池之内・中筋・川口下組内93か村の百姓3000余人、大内橋下の安久川原に集合、4ツ時(同10時)、魚屋町堀際まで行進して座り込む 暮方、本町・竹屋町・寺内町内へ移動して野宿する 一方、村々の願書(定免下げ、米・銀札拝借、中間給米上納免除ほか)は、大庄屋より代官に提出される(写真24)
1733享保18年癸丑4174月上旬、竹屋町壺屋与一左衛門、一揆の村々願書を書き改め、要求を大庄屋預かり米の未納分用捨、拝借銀札・米麦の分割返納、定免平均1損2歩5厘(12.5%)5か年間免下げとするよう働きかける この日および翌日、村々庄屋中、町方に相詰めこれを承諾する
1739元文4年己未9藩、竹屋・平野屋・吉原町に課す役船高を、役船100艘・船役家43軒と定める
1782天明2年壬寅1当月改めの竹屋町内持船、べざい型船200石積1艘、同170石積2艘、同130石積1艘をはじめ、100俵積以下45艘
1837天保8年丁酉藩、吉原町・竹屋町・平野屋町・丹波町・魚屋町の魚問屋・魚仲買・魚商いに対して、売上銀高の100分の1を非常用手当として徴収する旨達する
1847弘化4年丁未1228藩、京通い日雇の儀、別紙書付の通り定め申しつける間、先達て書き出した魚荷物稼ぎの者は京通い日雇と相心得ること、日雇頭四郎兵衛を差し免し、当分のところは魚屋・丹波・平野屋・竹屋町年寄へ日雇頭心得を申しつけ置く間、早々罷り出て鑑札受け取り指図に従い相勤め申すべきことを達する(弘化5・2・18本町番匠屋孫一、日雇頭就任)
1858安政5年戊午3藩、高野谷川筋に塵芥を捨てる儀は相成らない旨前々より申達あるところ、近ごろ引土町より竹屋町・寺内町裏川筋住家は勿論、脇町よりも夜中大橋へ持ち出して捨てる次第相聞え不埒の至りである 右川尻水戸筋近年掘り浚えても間もなく埋まり行き届き難い趣につき、向後、右川筋並びに北浜裏へ塵芥を捨てる者は処罰する この度、嶋崎徒人小屋前より稲荷境内までの間を塵芥捨て場に申しつけた故、月に2,3日掃除日を定め、銘々の家に積み置いた塵芥を町々人足をもってその日に右場所へ捨てることなどを達する
1885明治18年乙酉1121舞鶴郵便局、竹屋町へ移転
1893明治26年癸巳14京都第百十一国立銀行舞鶴支店(舞鶴町字竹屋)開設
1898明治31年戊戌58新橋(舞鶴町字竹屋、高野川)渡橋式(明治29・8流失)
1925大正14年乙丑○大丹生丸運航開始(舞鶴町字竹屋高野川尻・四所村字大君・同吉田・同青井・同白杉・西大浦村字千歳・同大丹生・同浦入)
1942昭和17年壬午○竹屋尻・白杉間連絡船四所丸就航(四所村信用販売購買利用組合所属)
1951昭和26年辛卯77新橋(字竹屋、高野川)改修、開通
1964昭和39年甲辰81国民金融公庫舞鶴支店(字竹屋)開設
「舞鶴市史年表」より

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