平野屋町の年表

西暦和暦出来事
1739元文4年己未9藩、竹屋・平野屋・吉原町に課す役船高を、役船100艘・船役家43軒と定める
1811文化8年辛未7藩、鍛冶職に対して上質の農具の製造を令し、その製品検査のため「鍛冶取締役」4人を仰せつけて、平野屋町細工物問屋に毎日1人ずつ詰め、鍛冶仲間が差し出す細工物の吟味をするよう達する また、農具を村々庄屋宅へ預け置かせ、その代料は年7月・12月両度払いとさす
1837天保8年丁酉藩、吉原町・竹屋町・平野屋町・丹波町・魚屋町の魚問屋・魚仲買・魚商いに対して、売上銀高の100分の1を非常用手当として徴収する旨達する
1847弘化4年丁未1228藩、京通い日雇の儀、別紙書付の通り定め申しつける間、先達て書き出した魚荷物稼ぎの者は京通い日雇と相心得ること、日雇頭四郎兵衛を差し免し、当分のところは魚屋・丹波・平野屋・竹屋町年寄へ日雇頭心得を申しつけ置く間、早々罷り出て鑑札受け取り指図に従い相勤め申すべきことを達する(弘化5・2・18本町番匠屋孫一、日雇頭就任)
1858安政5年戊午4藩、他所にて売物代に受け取り持ち帰った他藩札は、平野屋町大屋吉兵衛方にて当藩札と引き替え申すべきことを達する
1866慶応2年丙寅728町年寄月行司(平野屋町)、藩主が芸州口討手としていよいよ出陣に相成る趣につき、朝代社・愛宕社・大川社において、8・1~3、2夜3日の間、軍神祭祈祷執行相頼み御札を献上すること、町方3日の間日尽し、一同参詣致すべきことを達する
「舞鶴市史年表」より

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