由良村の年表

由良川も含む

西暦和暦出来事
1538天文7年戊戌83武田元光、由良浜での合戦につき白井民部丞に感状を出す
1583天正11年癸未4忠興、秀吉の命により柴田勝家支配の越前国へ水軍を派遣して同国の浦々を焼き払い、由良湊の守備兵を討ち取る
1599慶長4年己亥忠興、加佐郡和江村地先の由良川へ突出した岬が、洪水時に濁流を遮って水害をもたらしていたので、これを防止するため岬を掘削する ただし岬端の岩盤が硬くて除去できず、河中に島(瀬戸島)となって残る(大正2年除去)
1600慶長5年庚子929忠興、福知山攻城戦中のこの日、由良川を福知山から加佐郡中山の城まで川舟で下り、それより陸路田辺に入って実母をはじめ家族と対面する のち福知山へ引き返す
1650慶安3年庚寅828由良川大洪水起こる 福知山流れという
1694元禄7年甲戌121藩、由良川筋の代官支配所を河切りに分けて、川口東組・川口西組とする
1696元禄9年丙子6藩、由良村水戸に米蔵を建て、由良川筋村々の年貢を収納する
1700元禄13年庚辰428江戸諏訪町近江屋半左衛門、丹後国由良湊より京嵯峨までの川舟通路願を、綾部藩江戸屋敷に提出する(先年より出願者数多あり)
1702元禄15年壬午224上使長谷川六兵衛、由良川筋を検分する この日、由良村松原寺泊り
1702元禄15年壬午225北有路村立玄泊り、大河筋京都まで米上る由(由良川通船願につき見分)
1703元禄16年癸未818大洪水起こる 由良川は慶安3・8・28の福知山流れ以来の増水となる
1705宝永2年乙酉56京都西洞院通椹木町田辺権四郎ら、丹後穀物その外一切の荷物を由良川筋より嵯峨へ搬出するにつき幕府の許可を得、この日、丹後荷物を納める蔵2棟を天竜寺境内伏原堤に建てたことを同寺へ申し出、寺の旧規支配に従う旨の一札を入れる
1706宝永3年丙戌313田辺権四郎、丹後国由良湊より丹波国黒瀬村まで川筋舟往来につき幕府の許可を得、丹波国位田村で舟道・新川をつける用地を買い求める
1710宝永7年庚寅1125大坂天満老松町岡村善八、由良川と加古川の舟運を結んだ丹後国栗田湊・播磨国高砂湊間の通船を、大坂町奉行(カ)に願い出る
1714正徳4年甲午1222大坂天満老松町岡村善八、由良川・加古川直結舟運路開通のための川浚え・道普請・高瀬船通用諸事覚書を、大坂町奉行所(カ)に提出する
1715正徳5年乙未6大川・久田美・桑飼下・由里・桑飼上村庄屋および志高村年寄、由良川・加古川直通舟運の開発により、道広げ普請のための田畑潰れ、川除けのための川端の藪・桑伐払い、船引人足雇いのための耕作妨げ、鮭簗立ての停止、船会所・蔵敷地の皆無など、村々の支障を大坂町奉行(カ)に訴える
1716正徳6年
(享保元年)丙申
このころ(享保期初頭)、藩、由良川水運につき、登り荷および下り荷を二ヶ村河原にて船継ぎとし、これより川上での登り荷運漕権を南有路・北有路村に与える また、他領の下り船の船継ぎ場通過を禁止する
1720享保5年庚子1219代官飯束孫次郎、由良川より播磨国へ加賀米を川船にて回す願い出が相かない、その見分のためか、大坂川師3~4人付添い宮津に来り、この日、1泊する
1720享保5年庚子1221上使野村時右衛門・小林平六、北國米通船につき由良川筋を見分する この日、由良村泊り
1725享保10年乙巳214大津代官桜井孫兵衛、丹後国由良湊より京嵯峨まで川筋通船の願人あるにつき、由良川筋の船道を見分に来る
1734享保19年甲寅7藩、他領船が由良湊より由良川上流へ遡ること、河口のうし嶋より川上に船懸りすることを禁止する
1735享保20年乙卯622昼4ツ時、由良川筋大水 郡内の死者400余人 丹波国より川口へ流れ来る牛馬そのほか言語に及ばず
1736元文元年丙辰106午ノ時、北風にて細波起こり、日本国中北向きの浜大いに損じる 由良村の船損失大、同村死者24人 夜子ノ刻まで風吹く
1736元文元年丙辰112久美浜代官海上弥兵衛、由良川筋村々の庄屋の判を取る この日、由良村松原寺泊り
1737元文2年丁巳9これより先、(南北)有路村高瀬船持、由良・神崎村川船積荷の船継ぎにつき藩へ訴える 川口上組・同下組大庄屋の取扱いにより双方和談、登り荷は残らず二ヶ村河原にて有路高瀬船が積み請けること、由良・神崎の塩荷船は福知山まで積み登りうること、船継ぎ場での下り荷の3分の2は由良・神崎船、3分の1は有路船が積み請けることなどの1札を取り交わす
1737元文2年丁巳9藩、登り荷物運漕に雇われた川船は定運賃のほか一切取らないこと、由良・神崎村川船は塩荷のほかの登り荷物を、二ヶ村船継ぎ場で一切有路村高瀬舟に継ぐこと、由良村にて他領船の取締りを怠らないことなどを令する
1737元文2年丁巳9藩内の由良川舟運に従事する船持人数、由良村川船持28人、神崎村同8人、南有路村高瀬船持7人、北有路村同4人
1741寛保元年辛酉1015由良・神崎・(南北)有路村、由良川舟運での有路船継ぎをめぐって、天領蓼原村と船論を始める
1742寛保2年壬戌617由良・神崎・(南北)有路村庄屋・船持惣代・船差、川口下組大庄屋ら11人、蓼原村との船論につき、藩の意向を受けて幕府に訴えるため江戸へ出立する
1742寛保2年壬戌1025由良・神崎・(南北)有路村、蓼原村との船論で和談を遂げ、蓼原船は有路船継ぎ場より下へは下らず、由良・神崎・有路登り船の通行に手出ししない旨の証文を取り交わす
1743寛保3年癸亥1016明成、由良村権右衛門夫婦の孝養を賞して、夫に白銀5枚、婦に蔵米を給する
1746延享3年丙寅513幕府巡見使来藩する この日、由良村休み、田辺宿泊
1746延享3年丙寅由良村の製塩規模、塩浜長さ613間、釜屋数197軒(写真26)
1756宝暦6年丙子313乞食様の者2、3人、由良川筋の所々に立ち寄り、難儀ゆえ訴え出たい旨を話して通る
1759宝暦9年己卯 ○大坂長柄屋治兵衛、これより先、丹後国由良湊より山城国嵯峨までの通船願を京都下町奉行へ提出、同奉行、川筋各領主に願い出るよう達する 治兵衛、去年来丹後筋は相願済、当年、丹波筋へも願書・口上書を差し出す
1760宝暦10年庚辰8藩、由良川筋の儀は平生の心掛け取繕い第一のこと、この度、村々川々見回り奉行相回りその所において仕方など申しつける間、村切り人足差し出し指図に任すべきこと、切畠は御禁制のところ、只今取潰し申しつけても難渋の族もあるべく、これまで在り来りの分はそのまま差し置き、自今、新規切畠は停止仰せつけることなどを達する
1760宝暦10年庚辰1022由良村昼休み、宮津巡見(以上、予定日)
1770明和7年庚寅825幕府勘定奉行所、大坂町年寄に対し、丹後国由良湊より山城国嵯峨川筋通船致したい由、この度、京都に申立て人あるにつき、右通船御免の上、北国・東国米の新船通送にて米相場に影響ないか、北国筋回米を由良湊で売買、新船にて京都へ差し登しても支障ないかを相糺すよう達する
1773安永2年癸巳 ○藩、由良川・高野川河口の浚渫費に当てるため、「水戸銭」という船荷課税を、当年から5か年の間実施する 船荷売買代銀札100匁につき3分ずつ徴収
1785天明5年乙巳112由良村火事 竃140軒焼失する
1785天明5年乙巳7幕府勘定奉行所、大坂町年寄に対し、武蔵国豊嶋郡三河嶋村百姓三郎兵衛方寄留の与惣右衛門が、丹後国由良湊より山城国嵯峨まで由良川通船相始め、これまで大坂へ未回送の諸産物を運送致したい旨、新荷物品書を添えて願い出たが、当地の東国・北国筋諸荷物取捌き商差障りの有無を相糺すよう達する
1786天明6年丙午武蔵国豊嶋郡三河嶋村寄留の与惣右衛門、丹後国由良湊より山城国嵯峨まで通船につき、川縁村々の証文を取り置いた旨申し立てる 幕府、これを糺すため代官らを差遣する故に吟味を受くべき旨、領分知行村々へ申し渡すよう関係各藩に達する
1787天明7年丁未78大坂町奉行所、同町年寄を呼び出し、勘定奉行所申達として、武州三河嶋村寄留与惣右衛門が由良湊より丹波国黒瀬村まで通船相始め、東国・北国の新出し諸産物を引き受けて黒瀬村より殿田村までは新規陸送、同村より高瀬船をもって嵯峨材木町まで運送致し、また、大坂より東国・北国へ回送の荷物も引き受けたい旨相願うにつき、天明5・10差障り相糺しのところ、米穀積送りの外は差障りないと申し立てた ところで、与惣右衛門は後々まで穀物は決して船積みしない旨を申しているが、差障りないかなおまた糺して返答書を持参するよう達する
1788天明8年戊申521由良村昼休み、宮津巡見 御頭松平惣兵衛(使番)・用人中根半平(小姓組)・目付山岡伝重郎(書院番)
1799寛政11年己未9大坂町奉行所、大坂町内で素人に混住したとして、当藩由良川筋のえた7人へ処罰を申し渡す
1802享和2年壬戌1藩、由良川筋の取繕い並びに切畠につき宝暦10・8申達を再度触れ、その後は切畠あるまいけれども、この度、見回り役人を相回す旨達する
1806文化3年丙寅910伊能忠敬ら、測量のため宮津藩栗田より当藩に入る この日、由良村泊り
1814文化11年甲戌 ○成田重兵衛著「蚕飼絹篩大成」、洪水の常習地では桑が水害に強く、その上、洪水が運搬する土砂泥土がその肥料となるので、由良川などの川筋地域は桑がよく繁茂して養蚕が繁盛するようになったと述べる
1818文化15年
(文政元年)戊寅
8蒲江村、同村前面の由良川で魞漁を始める
1825文政8年乙酉612藩、5・26に海辺を見分して大砲仕掛け場を決める この日、その場所(田井・野原・小橋・三浜・瀬崎・千歳・神崎・由良村)を達する(写真27)
1825文政8年乙酉異国船打払い令(無二念打払い令)の制札、市場・成生・三浜・中山・由良村に掲示される
1827文政10年丁亥閏623山城国淀河村与三左(右)衛門、これより先、丹州由良川筋新規通船取り開きたい旨、江戸勘定奉行に願い出る この日、同奉行所、宮津藩江戸留守居を呼び出し、通船につき領内差支えないか取り調べ報告するよう達する
1829文政12年己丑藩、類焼した江戸藩邸の再建用材を、由良村米屋四郎左衛門手船「礒辺丸」(700石積)を雇用して、当地より江戸に運漕する(写真28)
1838天保9年戊戌414由良村昼休み、宮津巡見 使番山本七郎左衛門、小姓組市岡内記、書院番三宅三郎
1839天保10年己亥428由良川筋大水にて稲苗を損じる 各組大庄屋、早・晩生に限らず余り苗を大切に囲い置くよう村々に達し、川口村々へ連絡する
1843天保14年癸卯4藩、当領分へ異国船渡来の節は防備人数を差し向ける間、異国船を見れば急便で郡役所に申し出ること、由良・神崎村、吉原猟船、町方船乗りの者は常々心をつけ、老人嶋沖にて見慣れぬ船を見受ければ、早速漕ぎ戻り郡役所へ申し出ること、その他を達する
1843天保14年癸卯8藩、公儀改革につきその趣意を相弁え、諸色値段正路に致し正礼をもって現銀に商売すべきこと、在方にても市場・中山・由良村、そのほか往来筋に少々店売り致す者も右同様相心得ることを達する
1843天保14年癸卯薪水給与令の制札、市場・成生・三浜・中山・由良村に掲示される
1846弘化3年丙午 ○由良村出身の蘭方医新宮涼庭、喜多村の建部地先において海面を埋め立て、新田開発に着手する 文久元年2町4反余りの耕地造成、その地名は「新宮」と名付けられる
1852嘉永5年壬子418藩、泉源寺村梅垣西浦・北有路村平野吉左衛門・由良村四郎左衛門・久田美村杢兵衛へ、各自の居宅にて銀札引替えを行うよう仰せつける
1855安政2年乙卯2藩、異国船渡来の節は防備人数を差し出す間、異国船を見受ければ郡役所に知らせること、鉄砲持主はかねて御用の用意をして置くことなど文化度以来の触れとともに、軍役の心得、大浦筋・由良・神崎海岸村々の心得、村々役人の心得などを達する
1855安政2年乙卯4藩、大庄屋・庄屋・年寄万々一の心得として、陣具類の継送、出張軍勢用品の準備その他とともに、平・中田・長浜・余部下・千歳村に城より大浦への急用船役、大山・多祢寺村に三浜峠詰めの急用継立て、中山村に由良への急用伝達、由良・神崎村川船に船役を申しつける旨達する
1861万延2年
(文久元年)辛酉
1226藩、他所より諸品買寄せまたは積出しの儀につき享和・文政度申達のところ猥りに相成り、改めて嘉永5・5申達のところとかく抜買い・抜荷物あるやに相聞える間、以来、田辺入船の他船・地船ともに商い物積請けの分は商会所・船問屋へ着致し、両所の内にて取捌きを受くべきこと、他船の買寄せ・送り荷物も同様 買寄せ・送り荷物の諸品で由良・神崎・町方の地船にて積送りの分、商会所・船問屋へ着致しの分は勿論、着しない船であっても先方より送り状をもって着致し、両所月番の改め・手形奥印の上、手形は嶋崎番所へ差し出し、なお改めを受けて水揚げ致すべきこと、地船の送り荷物積出しも同様などを達する(史料)
1866慶応2年丙寅84藩、由良村・神崎村・大浦辺・吉原町漁船・町方船乗りに対し、当今不容易の風聞につき海上へ罷り出る節は心をつけ、小船たりとも見慣れぬ軍艦・蒸気船を見受ければ、早速漕ぎ戻り郡役所へ申し出るよう達する
1868慶応4年
(明治元年)戊辰
718由良川大洪水、久田美川下流付近で床上約60cm浸水
1877明治10年丁丑蒲江・石浦・由良・東神崎4か村、由良川口魞漁につき相互規制、設置期間など取り決める
1878明治11年戊寅府、淡水養殖を開始し、サケの人工孵化を由良川下流の城島で実施
1885明治18年乙酉71大風水害、由良川大はん濫する
1886明治19年丙戌1118風水害、由良川流域に被害
1886明治19年丙戌○宮津街道加佐郡地内(由良川筋地内)工事着工
1892明治25年壬辰523山城・両丹地方水害(雨量、舞鶴126、3mm)由良川などの増水により堤防決壊、家屋浸水等被害甚大
1896明治29年丙申1016由良村・神崎村漁民、魞漁業及び仕切網禁止につき府に嘆願
1897明治30年丁酉93水産巡回教師牛窪其三男、府直轄事業として由良川のサケ人工孵化事業の開始を建言
1900明治33年庚子2府、陸軍・内務両省に丸八江村八田・東雲村上東間(由良川)舟橋架設の許可を申請
1901明治34年辛丑41大川橋(丸八江村字八田・東雲村字上東間、由良川)完成、渡橋式
1901明治34年辛丑12由良汽船商社の由良川丸(8.9t・30人乗り)、福知山蛇ヶ端・由良間(由良川)就航
1907明治40年丁未824豪雨のため由良川・与保呂川・高野川はじめ郡内各地の河川はん濫、大被害を受ける(最高水位、岡田下村字志高11.5m)
1909明治42年己酉626大川橋(東雲村・丸八江村間、由良川)架設
1910明治43年庚戌9由良村・神崎村の製塩廃止
1913大正2年癸丑1025瀬戸島(丸八江村字和江、由良川)開削工事竣工
1913大正2年癸丑○由良川改修工事開始(明治44末)、岡田下村字志高舟戸の全戸移転完了
1914大正3年甲寅5大川橋継足架設(東雲村・丸八江村間、鎮守府街道、由良川)
1918大正7年戊午820豪雨(雨量241.8mm)、由良川流域増水はん濫、住家91戸浸水、道路・堤防の破損85か所、9・24第2回はん濫、浸水家屋151戸、道路・堤防破損16か所
1921大正10年辛酉925豪雨(雨量217mm)、各河川はん濫、河守町30尺、岡田下村28.5尺、東雲村大川橋23尺(由良川)、中筋村伊佐津10尺(伊佐津川)それぞれ増水、郡道被害96か所、工費8万356円
1926大正15年
(昭和元年)丙寅
415府、由良川水上滑走船定期運航(福知山・由良間)許可
1926大正15年
(昭和元年)丙寅
415府、由良川水上滑走船定期運航(福知山・由良間)許可
1930昭和5年庚午731台風による豪雨により由良川大洪水
1931昭和6年辛未1013由良川流域大洪水、大雲橋など流失、住宅・田畑など大被害
1939昭和14年己卯○加佐郡西部漁業協同組合結成(由良川淡水漁業者)
1941昭和16年辛巳127舞鎮司令長官・幕僚、機関学校長、要塞司令部幹部ら由良神社(由良村)へ騎乗参拝
1942昭和17年壬午71京都府与謝地方事務所(宮津町)設置、加佐郡の内、岡田上・岡田中・岡田下・八雲・神崎・由良・朝来・東大浦・西大浦村が所轄となる
1945昭和20年乙酉109連日の豪雨により市内各所に浸水、宮津線不通、由良川大出水、八雲橋流失
1947昭和22年丁亥51加佐地域の新制中学校(八雲・由良中学校)開校(5・3岡田中学校)
1949昭和24年己丑41由良村・八雲村・神崎村組合立由良川中学校設立(八雲・由良中学校合併)
1950昭和25年庚寅95由良川筋北部6か村、合併研究委員会開催
1952昭和27年壬辰624岡田下橋仮橋流失(台風により由良川洪水)
1952昭和27年壬辰由良川漁業協同組合、岡田上・岡田中・岡田下・八雲村地区を吸収
1953昭和28年癸巳518大川橋(八雲村、由良川)竣工
1955昭和30年乙未313由良村、村民大会の結果合併不参加を声明
1955昭和30年乙未314加佐郡北部6か村合併委員会(由良村不参加)、5か村合併を決議
1955昭和30年乙未1011加佐郡由良村、舞鶴市編入を正式申入れ
1955昭和30年乙未1025加佐町、由良村を加佐町編入の上舞鶴市編入希望の旨申入れ
1955昭和30年乙未128由良村の舞鶴市編入合併期成同盟会長ら市議会議長に編入を要請
1956昭和31年丙申210市議会、行政区画調査特別委員会設置(由良村の舞鶴市編入合併問題の調査研究)
1956昭和31年丙申420加佐郡由良村、宮津市編入に伴い学校組合解散、加佐町立由良川中学校(八雲校舎のみ)と改称
1956昭和31年丙申513加佐郡由良村議会、舞鶴市合併申入れ取下げを決議
1956昭和31年丙申76市長、加佐町・由良村合併斡旋につき議員協議会で報告
1956昭和31年丙申816市議員協議会、由良村・加佐町編入につき可決
1961昭和36年辛丑○府道由良舞鶴線の由良川に渡船場(神崎・宮津市由良)設置
1962昭和37年壬寅417舞鶴の工業用水計画案(総工費36億円、舞鶴地区に由良川から工業用水を送水する計画)まとまる
「舞鶴市史年表」より

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