西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 出来事 |
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1251 | 建長3年辛亥 | 8 | 3 | 平光盛、将軍家政所下文によって倉橋荘内与保呂村地頭職が安堵される |
1416 | 応永23年丙申 | 10 | 朽木能綱、倉橋荘内与保呂村について、南北朝時代に丹後守護山名満幸に押領され、明徳の乱以降は丹後守護一色満範に押領されたので、幕府に対して元のごとく所領安堵の御教書を申請する | |
1733 | 享保18年癸丑 | 11 | 14 | 藩、年貢未進をめぐる村勘定を不満として訴え出た、上与保呂村百性14人を不届千万として、その妻子とも49人を追払い処分とする |
1836 | 天保7年丙申 | ○四条派の画人塩川文麟、報恩寺(字与保呂)本堂の6室42面に山水・鶴・猛虎・雲竜等の図を描き、「丙申秋日 文麟」・「翡蓋楼 文麟」当の款記を残す | ||
1874 | 明治7年甲戌 | この年設立された学校 平校(平村梅原六右衛門空家)・与保呂村(与保呂村報恩院)・田井校(田井村海臨寺) | ||
1898 | 明治31年戊戌 | 9 | 27 | 与保呂村・倉梯村両村長より軍用水道取水補償上申書を府知事に提出 |
1898 | 明治31年戊戌 | 11 | 臨時海軍建築部長、与保呂水源池地質水量調査につき海軍大臣に建議 | |
1899 | 明治32年己亥 | 3 | 臨時海軍建築部長、与保呂水源池工事を直轄工事にしたい旨海軍大臣に上申 | |
1900 | 明治33年庚子 | 8 | 海軍用水道水源池建設に伴う与保呂・倉梯両村の灌漑用水減水補償問題解決 | |
1900 | 明治33年庚子 | 9 | 舞鶴海軍用水道、桂貯水池(与保呂村字与保呂)完成 | |
1901 | 明治34年辛丑 | 与保呂川に西国橋・万代橋、寺川に白糸橋架橋命名 | ||
1905 | 明治38年乙巳 | 6 | 海軍軍用水道増大のため岸谷貯水池(与保呂村字与保呂)新設 | |
1907 | 明治40年丁未 | 3 | 与保呂村「忠魂碑」(字木ノ下)建立 | |
1907 | 明治40年丁未 | 8 | 24 | 豪雨のため由良川・与保呂川・高野川はじめ郡内各地の河川はん濫、大被害を受ける(最高水位、岡田下村字志高11.5m) |
1908 | 明治41年戊申 | 8 | 4 | 与保呂川水害予防組合設置(与保呂川・椿川改修) |
1909 | 明治42年己酉 | 4 | 1 | 倉梯尋常小学校・与保呂尋常小学校・余内尋常小学校・中筋尋常小学校・高野尋常小学校・神崎尋常小学校に高等科を併置、それぞれ、尋常高等小学校と改称 |
1915 | 大正4年乙卯 | 8 | 16 | 与保呂村信用組合設立許可 |
1916 | 大正5年丙辰 | 7 | 公設与保呂消防組発足 | |
1916 | 大正5年丙辰 | 10 | 大阪電灯(株)舞鶴支店、志楽村、与保呂村、倉梯村字堂奥・多門院、神崎村、東雲村、丸八江村、岡田上村、岡田下村へ電灯供給開始 | |
1921 | 大正10年辛酉 | 3 | 11 | 新舞鶴町会、中学校建設寄付金の郡費分賦など全額否決(倉梯・与保呂・朝来・西大浦村も全額否決、中舞鶴町・志楽村・東大浦村は一部修正減額) |
1921 | 大正10年辛酉 | 6 | 岸谷貯水池(与保呂水源地)完成 | |
1933 | 昭和8年癸酉 | 岡田中村・与保呂村・高野村、京都府経済更生指定村となる | ||
1938 | 昭和13年戊寅 | 8 | 1 | 東舞鶴市設置(中舞鶴町・新舞鶴町・倉梯村・与保呂村・志楽村合併) |
1943 | 昭和18年癸未 | 4 | 1 | 東舞鶴国民学校(字浜)開設(東舞鶴市の新舞鶴・倉梯・与保呂・志楽各国民学校高等科分離統合) |
1943 | 昭和18年癸未 | 9 | 28 | 舞鶴市東森林組合成立(旧中舞鶴町・新舞鶴町・倉梯村・与保呂村・志楽村内の29か字) |
1951 | 昭和26年辛卯 | ○現舞鶴市域内の8農地委員会解消、舞鶴市新中舞鶴・東大浦・西大浦・朝来・志楽・与保呂・倉梯・四所・高野・中筋・池内・余内、岡田上・岡田中・岡田下・八雲・神崎の17農業委員会発足 | ||
1956 | 昭和31年丙申 | 2 | 4 | 舞鶴市東農業共済組合設立(新中・倉梯・与保呂・志楽・東大浦・西大浦農業共済組合合併) |
1964 | 昭和39年甲辰 | 10 | 17 | 上水道与保呂浄水場完成 |
与保呂村の年表
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