丸田村 郡村誌

 現在の舞鶴市丸田(マルダ)。明治17年当時、戸数 88戸、社3戸、寺1戸、総計92戸、人数 男189口、女201口、総計390口。

・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

村誌 

丹後國加佐郡丸田(マルタ)村

本村往古凡海郷ノ属ニシテ由良庄ノ部内ニアリ、古来分合変換ナシ

●彊域 東南ハ大雲川中央ヲ以テ同郡中山・下東・上東三村ト界シ、西ハ八田村ト耕地ヲ以テ界シ、北ハ和江村ト仁谷山ヲ以テ界シ、正北ハ山嶺ヲ以テ僅ニ長谷村ニ界ス

●幅員 東西七町三十間許、南北二十三町許、面積欠ク

●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ

●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十六里五十六間、宮津支庁ヨリ東南方凡五里弱、四隣西八田村ヘ七町四十四間五分<実測>、北和江村へ十七町五十四間、東下東村へ凡八町

●地勢 西北山岳ヲ負ヒ、東南大雲川ニ面ス、全村概ネ平坦ノ地ナリ、運輸便利薪炭乏シ

●地味 其色赤、其質下等、稲禾ニ適セスシテ桑・茶ニ宜シ、水利不便ニシテ年々旱ニ苦ム

●税地 田<三拾四丁八反弐畝八歩>、畑<廿七丁弐反六畝拾三歩>、宅地<弐丁九反五畝廿六歩>、山<反別欠ク>、藪地<六反九畝拾弐歩>、総計<六拾五丁七反三畝廿九歩>

●字地 門戸(モント)<村ノ北ニアリ、東西一丁十二間、南北二丁三十七間>、齋宮(イツキ)<村ノ北ニアリ、東西三丁三十六間、南北五十六間>、椎ヶ鼻(シイハナ)<村ノ西ニアリ、東西四十五間、南北三十三間>、今西<同上、東西五十間、南北六間>、天神<同上、東西三十五間、南北五十五間>、以上著名ノ字ヲ挙ク余ハ略ス

●貢租 地租<金七百六拾壱円五拾四銭五厘>、山税<金八拾銭八厘>、国税<金廿銭>、総計<金七百六拾弐円五拾五銭五厘>

●戸数 本籍八十八戸<平民>、社三戸<村社一座、無格社ニ座>、寺一戸<禅宗>、総計九十二戸

●人数 男百八十九口<平民>、女二百一口<平民>、総計三百九十口

●牛馬 牡牛二頭、牝牛十五頭、総計十七頭

●舟車 日本形舩二艘<五十石未満荷舩一艘、渡舩一艘>

●山 部内山岳アリト雖トモ卑小ナレハ略ス

●川 大雲川<二等河ニ属ス、深所二丈許、浅所三尺、巾一丁五間許、清水流緩、舩筏通ス、南方八田村界ヨリ来リ北方和江村界ニ入ル、長十八丁四十間>、滝ノ川<源ヲ本村字平(タヒラ)山ヨリ発シ、曲流シテ東南ニ趣キ、字野田ニ至リ大雲川ニ入ル、長三十丁許、巾一間、田三丁歩ノ用水ニ供ス>、門戸渡<村往還ニ属ス、本村ヨリ三丁許、深所二丈許、浅所三尺、巾一丁五間、本村東方大雲川ニアリ、渡舩一艘私舩ナリ>、野田橋<村往還ニ属ス、架シテ村ノ西方滝ノ川下流ニアリ、長二間一尺、巾三尺、石造ナリ、下同シ>、櫻木橋<同上、架シテ村ノ西方滝ノ川ニアリ、長一間二尺、巾五尺>、一ノ向橋<同上、架シテ村ノ北方奈良ノ木溝ニアリ、長二間一尺、巾四尺>、齋宮橋<同上、架シテ村ノ北方齋宮溝ニアリ、長一間二尺、巾五尺>、奈良ノ木溝<源ヲ字奥ノ谷ヨリ発シ、曲流シ北ニ趣キ大雲川ニ入ル、長八丁許、巾六尺、田一丁歩ノ養水ニ供ス>、齋宮溝<源ヲ字斎宮ノ奥ヨリ発シ、曲流シ東ニ趣キ大雲川ニ入ル、長六丁許、巾六尺、田弐丁歩ノ養水ニ供ス>

●森林 天神林<官ニ属ス、四履欠ク、反別壱丁五反三畝弐拾歩、村ノ西北ニアリ、囲三尺、長二間半、松二十三株、囲三尺、長三間半巳下、杉四株、囲三尺、長二間巳下、樫百三十五株、囲六尺、長二間半、雑木六十五株>

●道路 村道<村ノ北方和江村界ヨリ西南方八田村界ニ至ル、長十五丁、巾一間、本村字門戸ヨリ東ニ折レ渡場ニ通ス、又字椎ヶ鼻ヨリ北ニ折レ本村字大谷ニ通スル両支道アリ>

●堤塘 椎ヶ鼻堤<大雲川ニ沿ヒ、村ノ東方字椎ヶ鼻ヨリ字上平方ニ至ル、長一丁四十七間、馬踏九尺、堤敷八間、根堅メ柳樹ヲ植ウ、修繕費用ハ官ニ属ス>、滝ノ川堤<滝ノ川ニ沿ヒ、村ノ西方字平山ヨリ字野田ニ至ル、長四丁三十四間、馬踏五尺、堤敷一間半、根堅メ柳樹アリ>

●瀧 大瀧<高三十間、巾二間半、字平山ノ山間ヨリ出テ村ノ西方字平山ニ落ツ、下流滝ノ川トナル>

●社 麻呂多社<式内村社々地、東西十五間、南北九間四歩、面積百四十一坪、村ノ西ニアリ、誉田別命ヲ祭ル、旧ト八幡宮ト称セシヲ、何レノ時カ今ノ称ニ更ム、相伝フ、貞観五年創建セリト、境内末社三座又老樹アリ、祭日九月十五日・・>、稲荷社<社地東西七間半、南北四間、面積三十坪、村ノ西ニアリ、倉稲魂命ヲ祭ル、享保十年乙巳六月六日勧請ス、祭日六月六日、境内末社一座アリ>、天神社<社地東西九間、南北七間八歩、面積七十坪、村ノ西北ニアリ、天御中主神ヲ祭ル、創建年代詳ナラス、天安二年……戌寅三月十六日再建ス、祭日九月廿五日>

●寺 宗見寺<境内東西十六間六歩、南北十六間、面積二百六十五坪、禅宗、本郡舞鶴桂林寺末、村ノ西ニアリ、天正元年癸酉六月、僧需源開基創建ス、尓後衰微セシヲ、宝永四年丁亥七月、僧泰澄再建ス>

●物産 大豆<四十石>、小豆<八石>、蒟蒻玉<千五百貫目>、繭<五百六十貫目>以上舞鶴市街ニ輸送ス

●民業 男<農ヲ業トスル者三十八戸、農ヲシテ養蚕ヲ兼ヌル者五十戸>、女<農ヲ業トスル者百人、内養蚕ヲ兼ヌル者六十人>

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