幕末・明治期の加佐郡・堂奥村における桐実生産

 1近世から近代の全国と加佐郡の桐実生産の変遷、2明治期の「郡村誌」から加佐郡内の生産の概要、3幕末から明治期の堂奥村における桐実生産の実態を分析した。

 桐実は、加佐郡において近世後期から明治前期にかけて各地で生産されていた。桐実は米と同価格とまでいわれ、農村の貴重な現金収入であった。しかし桐畑は、それまで田の肥料とした草を刈る野山で栽培されており、嘉永5年の堂奥・溝尻村のように入会していた他村との山論に発展した。  

 堂奥村は、明治前期「郡村誌」の「物産」としては未記載であったが、幕末から明治17年まではほぼ15町、約110石もの桐畑があったことが判明した。その後明治31年には10分1に減少したが、加佐郡全体では、明治15年3247石から明治34年900石と3分2の減少であり、堂奥ほど急減してはいなかった。そのため明治43年まで、ほぼ全国3位の生産量を維持していた。ただ全国的にも桐油から石油へと転換していくなかで、堂奥は明治36年に桐畑の地目変換を実施しており、より換金性の高い桑などの養蚕に変更したと考えられる。加佐郡の特産物であった桐実生産も縮小していくことになる。

出典:京都府立大学文化遺産叢書11『舞鶴地域の文化遺産と活用』140-156頁、2016

関連する歴史の人物

関連する人物はいません。