現在の舞鶴市安岡(ヤスオカ)。明治17年当時、戸数 38戸、社1戸、寺1戸、総計40戸、人数 男87口、女109口、総計196口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後国加佐郡安岡(ヤスヲカ)村
本村徃古志樂郷ニ属シ志樂谷<市場・泉源寺・田中・安岡・小倉・鹿原・吉坂・松尾>ノ部内タリ、元合一ニシテ日下部(クサカイ)村ト称シ、又春日部村ト唱ヘシヲ何レノ頃カ分割シ各其村称ヲ用ウ、<田辺府志曰、市場村ヨリ松尾村迄志樂庄ト云、元来日下部村ト云、古来奈良西大寺領地也、収物滞ニ付一色左京太夫ヲ頼ミ田中ノ大嶋但馬ヲ頼ミテ納末取立奈良ニ送ル、併シ労シテ無功事ユヘ後ハ但馬押領ス、其后大嶋御家人トナル、地頭替但シ日下部(クサカイ)春日大明神ノ社頭故春日部村ト云フトアリ>
●彊域 東ハ同郡吉坂村ト山嶺ヲ以テ界シ、北ハ白屋村ト山岳ヲ劃リ、西ハ田中村ト耕地或ハ山地ヲ以テ界シ、南ハ鹿原村ト志楽川中央ヲ以テ界シ、西北ハ僅ニ吉野村ト山岳ヲ以テ界ヲ接ス>
●幅員 東西十四町十間、南北九町二十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十七里十町、宮津支庁ヨリ東南方凡八里余、四隣東吉坂村ヘ十七町五十間<実測>、南鹿原村ヘ九町二十三間、北白屋村ヘ凡十町、西北吉野村へ十一町四十二間<実測>、西南小倉村ヘ六町三十三間
●地勢 闔境山岳起伏シ土地高塏ナリ、西南一方僅ニ闢ケテ田中村耕地ニ面ス、運輸不便薪炭乏シ
●地味 壚埴土ニシテ其質下等タリ、稍稲・麦ニ可ナルノミ、水利ハ不便ニシテ時々旱ニ苦ム
●税地 田<弐拾九町五反弐拾五歩>、畑<四町五反五畝弐拾八歩>、宅地<七反九畝弐歩>、山<反別欠ク>、藪地<三畝拾弐歩>、総計<三拾四町八反九畝七歩、外荒地壱町三反六畝弐拾五歩>
●字地 中井<村ノ東ヨリ南山際ニ至ル、東西八町三十一間、南北三十五間>、縄手<村ノ西ヨリ南ニ至ル、東西一町、南北二町四十間>、已上著名ノ字ヲ挙ク余ハ悉ク省略ス
●貢租 地租<金四百弐円三拾五銭三厘>、山税<金五拾六銭四厘>、総計<金四百弐円九拾壱銭七厘>
●戸数 本籍三十八戸<平民>、社一戸<無格社>、寺一戸<禅宗>、総計四十戸
●人数 男八十七口<平民>、女百九口<平民>、総計百九十六口
●牛馬 牡牛一頭、牝牛五頭、総計六頭
●山 闔境丘陵起伏スレトモ皆卑小ナレハ欠ク
●川 志樂川<深所二尺五寸、浅所八寸、巾二間、緩流ニシテ鹹味ヲ含有ス、長五町三十五間、東南方鹿原村界ヨリ来リ、本村西南境ヲ環流シ西方田中村界ニ入ル>、大内川<深所一尺、浅所八寸、巾三尺、清ニシテ緩、長四町三十間、本村字大内中山ヨリ発シ西方田中村界ニ入ル>、中川<深八寸、巾三尺、清ニシテ緩、長四町十九間、本村字中井ヨリ発シ西方田中村界ニ入ル>
●道路 中山往還<西方田中村界ヨリ北方白屋村界ニ至ル、長八町三十間、巾一間>、吉坂往還<西方田中村界ヨリ東方吉坂村界ニ至ル、長十二町四十九間、巾五尺>
●堤塘 志樂川堤<志樂川ニ沿ヒ、村ノ南方鹿原村界ヨリ西方田中村界ニ至ル、長五町三十二間、馬踏三尺、堤敷二間半乃至四間半、根堅竹木ヲ植ウ、修繕費用ハ官ニ属ス>
●社 安川社<社地東西七間、南北八間、面積五十六坪、村ノ西ニアリ、天照皇大神ヲ祭ル、由緒詳ナラス、祭日六月十二日>
●寺 少林寺<境内東西十二間、南北十三間、面積百五十六坪、村ノ東方ニアリ、禅宗、京都東福寺末、創立年月開基僧名詳ナラス>
●物産 大豆<三石九斗>、粟<六石八斗>、黍<四石一斗>、菜種<六石二斗>、以上舞鶴市街ヘ輸送ス
●民業 男<農・桑ヲ業トスルモノ三十八戸>、女<農・桑ヲ業トスル者百九人>