行永村 郡村誌

現在の舞鶴市行永(ユキナガ)。明治17年当時、戸数 230戸、社2戸、寺3戸、総計235戸、人数 男535口、女570口、総計1105口。

・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

村誌

丹後國加佐郡行永(ユキナガ)村

本村往古高橋郷ノ属ニシテ倉橋谷三ヶ村<森村・濵村及ビ本村>ノ一ナリ、元幸野村ト称セシヲ大永中行永村ト改ム、降テ寛文五年乙巳ニ至リ上中下ノ三村ニ分割セシヲ、後久合シテ一村トナル

●疆域  東ハ同郡溝尻・堂ノ奥両村ト山地ヲ以テ界シ、東南ハ與保呂村・常村ト山域ハ耕地ヲ限リ、西ハ森村ト道路ヲ以テ界シ、南ハ寺田・上根ノ二村ト山地ヲ以テ界シ、北ハ濵村ト野逕・溝洫ヲ以テ界ヲ限ル

●幅員 東西二十二町三十間、南北三十町五十七間、面積欠ク

●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ

●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十六里十町、宮津支庁ヨリ東南方凡八里、四隣東溝尻村ヘ十四町八間<実測>、西森村ヘ六町四十間<実測>、南常村ヘ十二町四十二間七分<実測>、北濵村ヘ十三町卅間<実測>

●地勢 東南山ヲ負ヒ西北概開豁田塍相望ム、道路平坥ニシテ諸車ヲ通シ運輸便利ナリ、薪炭ハ乏シ

●地味 其色赤黒錯糅砂礫ヲ混ス、其質上等、稲粱ニ宜シク菜蔬ニ可ナリ、水利不便ニシテ常ニ旱損アリ

●税地 田<百拾弐丁六反七畝廿壱歩>、畑<拾三丁壱反九畝拾九歩>、宅地<拾壱丁五反四畝廿六歩>、山<反別欠ク>、藪地<九畝拾三歩>、物干場<壱反三畝拾四歩>、秣場<七畝廿壱歩>、総計<百三拾七丁七反弐畝廿四歩、外荒地四丁四反七畝拾四歩>

●字地 宮尻<村ノ北ヨリ東ニ連ル、東西一丁二十五間、南北二丁三十間>、仁田<同上、東西四十八間、南北三丁二十間>、竹道<同上、東西二丁十四間、南北二丁四十七間>、中ヶ坪<同上、東西五十間、南北二丁八間>、和田垣<村ノ西ヨリ南ニ連ル、東西一丁四十三間、南北二丁十間>、八反田<村ノ東ヨリ西ニ連ル、東西三丁、南北二丁三十五間>、椿<村ノ南ヨリ東ニ連ル、東西一丁十間、南北六丁五十間>、池ノ部<村ノ南部ニアリ、東西一丁十三間、南北五丁五十間>、田中<村ノ東部ニアリ、東西一丁二十五間、南北三丁十間>、大道<村ノ東ヨリ南ニ連ル、東西二丁四十間、南北二丁四十五間>

●貢租 地租<金千八百七拾三円九拾七銭六厘>、山税<金壱円壱銭壱厘>、総計<千八百七拾四円九拾八銭七厘>

●戸数 本籍二百三十戸<平民>、社二戸<無格社>、寺三戸<禅宗二宇、真宗一宇>、総計二百三十五戸

●人数 男五百三十五口<平民>、女五百七十口<平民>、総計千百五口

●牛馬 牡牛二十三頭、牝牛四十三頭、総計六十六頭

●山 <闔境丘陵囲繞スレトモ卑小ナレハ略ス>

●川 與保呂川<深一尺、巾八間、清ニシテ緩、南方常村界ヨリ来リ北方濵村界ニ入ル、長十五丁三十七間>、池邊川<本村西南方森村界ヨリ来リ、村内ノ諸渓水ヲ合セ北流シテ字松本ニ至リ与保呂川ニ入ル、巾二間、長廿二丁五十二間二分、平時水少シ、霖雨ノ際暴漲ス>、松本橋<村往還ニ属ス、架シテ村ノ南方與保呂川上流ニアリ、長九間、巾三尺、木製>、中村橋<同上、架シテ村ノ南方與保呂川ニアリ、長八間七分、巾三尺、木製>、井關橋<同上、架シテ村ノ南方與保呂川ニアリ、長七間五分、巾三尺、木製ナリ>、観音橋<同上、架シテ村ノ中央與保呂川ニアリ、長八間八分、巾一間五分、土造ナリ>、橋垣橋<同上、架シテ村ノ北方與保呂川下流ニアリ、本村ヨリ森村ニ通ス、長八間、巾五尺、木製>、龜岩溝<源ヲ字龜岩ヨリ起シ、村ノ東境ヲ過キ田十六丁九畝廿四歩ノ用水ニ供ス、長十五丁廿二間、巾三尺>

●湖沼 赤迫(アカサコ)池<村ノ西ニアリ、東西一丁四十五間、南北三十五間、周回四丁五十五間、本村ノ田拾六丁九反四畝弐拾三歩ノ用水ニ供ス>、椿池<村ノ南ニアリ、東西五十間、南北四十二間、周回三丁廿間、本村ノ田拾六丁九反四畝廿三歩ノ用水ニ供ス>、宮ヶ谷池<村ノ東ニアリ、東西三十間、南北五十五間、周回二丁廿八間、本村ノ田拾弐丁九反三畝廿壱歩ノ用水ニ供ス>

●道路 與保呂谷道<村ノ南方常村界ヨリ北方森村界ニ至ル、長七丁十八間、巾一間>、祖母谷往還<村ノ西方森村界ヨリ東宝溝尻村界ニ至ル、長十一丁五間、巾一間、字橋垣ヨリ北折シテ濵村ニ通スル支道ナリ>

掲示場<本村南口ニアリ>

●堤塘 與保呂川堤<与保呂川ニ沿ヒ、村ノ南方常村界ヨリ北方濱村界ニ至ル、長十五丁三十七間、馬踏一間余、堤敷二間半、根堅メ所々小竹ヲ生ス、修繕費用ハ官民両途ニ属ス>

●社 藤森神社<社地東西八間、南北三十八間、面積欠ク、村ノ南方ニアリ、崇道天皇ヲ祭ル、相伝フ、大永中村人池部重房ナルモノ山城国紀伊郡藤森神社ヲ当地ニ勧請スト云フ、祭日十月二十九日、境内末社一座アリ>、池邊神社<社地四履欠ク、面積四百九十二坪、村ノ南方ニアリ、大山祇神ヲ祭ル、由緒詳ナラス>

●寺 龍勝寺<境内東西三十一間、南北四十間、面積欠ク、禅宗、京都東福寺末、村ノ東ニアリ、応安中僧方鏡開基創立ス、降テ寛正中ニ至リ衰頽ニ属セシヲ、領主一色左京大夫詮範僧膺選ニ命シ中興ス>、恰雲庵<境内東西二十間、南北二十五間、面積欠ク、禅宗、本村龍勝寺末、村ノ北ニアリ、弘治三年丁巳七月僧桂林開基創立ス>、西方寺<境内東西十三間、南北十二間、面積欠ク、真宗、京都本願寺末、村ノ東南ニアリ、享保元年丙申九月創立ス、開基僧名詳ナラス>

●学校 人民共立学校一所<村ノ北方字下明ニアリ、生徒男百廿四人、女十三人>

●古跡 古城墟<村ノ東方龍勝寺後山ニアリ、天正中一色氏臣上羽丹波守此ニ拠ルト>

●物産 大豆<二十石>、小豆<五石>、雑穀<五十石>、以上濱村ニ輸出ス ●民業 男女皆農ヲ専トス

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