現在の舞鶴市鹿原(カハラ)。明治17年当時、戸数 69戸、寄留1戸、社1戸、寺2戸、総計73戸、人数 男157口、女164口、総計321口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後国加佐郡鹿原(カハラ)村
本村往古志樂郷ニ属シ志樂谷<市場・泉源寺・田中・安岡・小倉・吉坂・松尾・鹿原>ノ部内タリ、元合一ニシテ日下部(クサカイ)村ト称シ、又春日部村ト唱ヘシヲ可レノ頃カ分割シ、各其村称ヲ用ウ<田辺府志曰、市場村ヨリ松尾村迄志楽庄ト云、元来日下部村ト云、古来奈良西大寺領地也、収物滞ニ付一色左京大夫ヲ頼ミ田中ノ大嶋但馬ヲ頼ミテ納米取立奈良ニ送ル、併シ労シテ無功事ユヘ後ハ但馬押領ス、其后大嶋御家人トナル、地頭替但シ、日下部春日大明神ノ社頭故春日部村ト云フト>
●疆域 東ハ若狭国大飯郡六路村・上津村及ヒ本郡吉坂村ト山嶺ヲ以テ界シ、北ハ本郡安岡村ト志楽川中央ヲ以テ界シ、西ハ小倉村、南ハ夛聞院村ト共ニ山岳ヲ劃リ、西北隅ハ田中村ト僅ニ志楽川中央ヲ以テ界ス
●幅員 東西二十六町三十間、南北十八町十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十七里十八町、宮津支庁ヨリ東南方凡八里余、四隣東吉坂村ヘ十五町十五間<実測>、西小倉村ヘ十三町<実測>、南夛聞院村ヘ二十五町二十一間、北安岡村ヘ九町二十三間
●地勢 三面連山ヲ負ヒ北方志楽川ヲ帯フ、中部平坦ナリ、運輸不便薪炭乏シカラス
●地味 黒土ニシテ砂礫ヲ混ス、其質中等、稲禾ニ宜シ、水利不便ニシテ時々旱ニ苦ム
●税地 田<三拾町七反五畝弐拾七歩>、畑<七町九反八畝弐拾八歩>、宅地<弐町弐反弐畝弐拾四歩>、山<反別欠ク>、薮地<八畝拾五歩>、林<弐畝拾九歩>、総計<四拾壱町八畝弐拾三歩、外荒地五反弐畝拾八歩>
●字地 石井<村ノ東ヨリ北ハ志楽川ニ連ル、東西六町二十間、南北五町三十間>、札垣<村ノ西界ニアリ、東西四十間、南北五十五間>、白屋<村ノ西ヨリ南ニ連ル、東北四町、西南五町>
●貢租 地租<金五百弐拾九弐貮拾七銭>、山税<金九拾四銭九厘>、国税<金弐拾三円弐拾銭>、総計<金五百五拾三円四拾壱銭九厘>
●戸数 本籍六十九戸<平民>、寄留一戸<平民>、社一戸<無格社>、寺二戸<真言宗一宇、禅宗一宇>、総計七十三戸
●人数 男百五十七口<平民>、女百六十四口<平民>、総計三百二十一口<外寄留男一人>
●牛馬 牝牛十三頭
●山 城ヶ尾山<高九十八丈四尺、周回欠ク、村ノ南ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、南ハ夛聞院村ニ属シ、西ハ小倉村ニ属シ、東北ハ本村ニ属ス、山脈東方青葉山ニ連リ、南方三国嶽ニ亘ル、満山只柴芽ヲ生スルノミ、渓水数条アリ、共ニ北流シテ村川・石井川ノ水源トナル>
●川 志樂川<深所三尺五寸、浅所一尺二寸、広所二間、狭所一間半、緩流海水逆行シテ鹹味ヲ含ム、村ノ東方吉坂村界ヨリ来リ西方小倉村界ニ入ル、長十四町二十間>、村川(ムラカハ)<深所三尺、浅所一尺、巾一間半、水清流緩ナリ、源ヲ本村字大滝ヨリ発シ、字森ノ下ニ至リ志楽川ニ入ル、長十町十間>、石井川<深所二尺、浅所一尺、清ニシテ緩ナリ、源ヲ本村字石井谷ヨリ発注シ、字石井向ニ至リ志楽川ニ入ル、長三町五十間>、鹿原橋<若狭道ニ属ス、架シテ村ノ中央村ノ下流ニアリ、橋長二間、巾一間、石造>
●森林 大滝山林<官ニ属ス、四覆欠ク、反別弐拾五町歩、村ノ東ニアリ、囲一丈、長三間以下、松三十二株、囲三尺、長二間、桂一株、囲一尺未満長之ニ称フ、雑木四百株>
●道路 若狭道<村ノ西方小倉村界ヨリ東方吉坂村界ニ至ル、長二十町五十間、巾二間、村ノ元標ヨリ南折シ夛聞院村ヘ通スル支道アリ、里俗呼テ、上林道トモ云フ>
●堤塘 志楽川堤<志楽川ニ沿ヒ、村ノ西方小倉村界ヨリ東方吉坂村界ニ至ル、長二十一町三十間、馬踏一間、堤敷二間半、根堅メ樹竹ヲ植ウ、修繕官費ニ属ス>、村川堤<村川ニ沿ヒ、本村字湯舟ヨリ起リ字森ノ下ニ至ル、長十八町四十五間、馬踏四尺、堤敷二間、修繕費用官民両途ニ属ス、以下同シ>、石井川堤<石井川ニ沿ヒ、本村字石井ヨリ起リ字石井向ニ至ル、長七町四十間、馬踏三尺、堤敷一間>
●社 鹿原(カハラ)社<社地東西五間、南北十間、面積四十一坪、村ノ北方ニアリ、加和良神ヲ祭ル、創建年代詳ナラス、祭日六月十三日、境内末社七座及ヒ老樹三株アリ>
●寺 徳藏院<境内東西十五間、南北二十二間、面積三百十二坪、村ノ北ニアリ、禅宗、南禅寺末、永和二年丙辰、僧規瑩開基創立ス>、金剛院<境内東西二十三間、南北三十六間、面積六百五十八坪、村ノ東ニアリ、往時真言宗無本寺タリシヲ、明治六年京都教主護国寺末トナル、天長六年已辰(己酉ヵ?)真如親王(平城帝ノ皇子)淳和帝ノ勅ヲ奉シ、伽藍ヲ創立セラル、当時支院若干アリシヲ文禄中廃壊スト、本寺伝説曰、高岡親王(戒名真如)京ニ御座ノ時鳳凰鳴ク、其声善哉〃〃トナキ飛行跡ヲ慕ヒ給フニ、丹後国鹿原山ニ至リ山ニ宿ス七日七夜ナリ、昼ハ善哉夜ハ怪去々々ト鳴ク、依之相応ノ勝地也トテ開キ玉フト、又云、人皇七十二代白河院永和二年壬午高岡親王創建ノ跡ヲ尋ネ、神社仏閣荒タルヲ修補シ玉フ、是中興開山也、比年大旱四月ヨリ七月マテ雨フラス諸寺雨ヲ祈ル七ヶ日、結願ノ日大雨天下ヲ濶ス、亦同年帝御脳(悩ヵ?)アリ、諸寺諸山丹誠ヲ尽メ験ニシ、又当寺ニテ祈願験シナキニヨリ衆僧相議シテ若州辺ニテアル不動ノ尊像勧請シテ祈祷ス、于時永保二年壬戌九月二十八日尊像ヲ鹿原ニ移ス(中略)、此時寺号慈恩寺ト名ク、慈悲ノ恩沢ユヘ亦諸堂修理衆僧供領ハ志楽ノ庄ニ於テ寄附セラル、御祈願ノ勅書勅願明白也云々トアリ>
●名勝 ニシキノ里<丹哥府志ニ曰、鹿原山ニ楓樹多カリシカハ、ニシキノ里トイフ、藻塩草ニ、ニシキノ里ハ春部ノ次ニアリトイフ、丹後トモ備中トモアリ、備中名勝考ニ備中ノ国ニ探リ求ルハ誤リトイフト>
●物産 大豆<三拾石>、粟<五石>、蜀黍<五石>、菜種<九石>、桐実<四十石>、以上舞鶴市街ヘ輸出ス
●産業 男<農事及ヒ採桑ヲ業トスル者五十四戸、日雇稼ヲナス者十五戸>、女<各夫業ニ従ヒ傍裁縫ヲナス>