現在の舞鶴市赤野(アカノ)。明治17年当時、戸数 32戸、社1戸、総計33戸、人数 男93口、女89口、総計182口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後国加佐郡赤野(アカノ)村
本村古時神戸郷ニ属スト云、然トモ此郷名今全ク湮滅ス、故ニ近古ヨリ志樂郷ニ属セシモノノ如シ、即チ、本村以下十一ヶ村<平村・夛称(祢ヵ?)寺村・中田村・河辺中村・西屋村・河辺由里村・室牛村・觀音寺村・河辺原村・栃尾村・大山村>ヲ河辺ノ荘ト称セルヲ按スレハ、文字ハ相違スレトモ訓ノ相通スルヲ以テ中古郷名ヲ変シテ荘名トナセシモノ歟、他ニ考証スヘキナシ
●疆域 東ハ同郡河辺中村ト柿安奥二山嶺ヲ以テ界シ、南ハ平村ト耕地又ハ細逕ヲ以テ界シ、西ハ又平村ト山林ヲ劃リ、北ハ多称祢(祢ヵ?)寺村ト耕地ヲ以テ界シ、東南方ハ僅ニ中田村ト山嶺ヲ以テ限ル
●幅員 東西十四町十間、南北八町五十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十九里二十一町、宮津支庁ヨリ東北方十一里二十四町、四隣東南中田村ヘ九町十二間<実測>、西南平村ヘ六町廿五間、北夛称(祢ヵ?)寺村ヘ十町四十七間<実測>
●地勢 東西山ヲ負ヒ南方平衍田畝闢ケタリ、運輸便利薪足リ炭乏シ
●地味 其色赭ニシテ少ク黒ヲ帯フ、其質中等、稲禾ニ可ナリ、水利ハ不便ニシテ時々旱害アリ
●税地 田<拾四町壱反壱畝拾六歩>、畑<六町壱反八畝七歩>、宅地<壱町弐反弐拾壱歩>、山<反別欠ク>、薮地<八畝弐拾九歩>、総計<弐拾壱町五反九畝拾三歩、外荒地壱反六畝弐拾四歩>
●字地 柿安<村ノ東方ニアリ、東西三町二十間、南北二町三十間>、柱松<同上、東西五十三間、南北三町十間>、堂ノ下<村ノ東南ニアリ、東西五十六間、南北一町二十五間>、柳生<村ノ東北ニアリ、東西一町八間、南北二町十間>、木坂<村ノ西南ニアリ、東西一町四十間、南北五十間>、安田口<村ノ中央ニアリ、東西一町四十四間、南北一町三十四間>、浄土寺<村ノ北ニアリ、東西一町五十間、南北一町二十間>
●貢租 地租<金弐百八拾八円拾九銭九厘>、山税<金六円九拾四銭六厘>、総計<金弐百九拾五円拾四銭五厘>
●戸数 本籍三十二戸<平民>、社一戸<無格社>、総計三十三戸
●人数 男九十三口<平民>、女八十九口<平民>、総計百八十二口<他出寄留男一人>
●牛馬 牝牛七頭
●山 神子(カミコ)ノ前(マヘ)山<高三十丈六尺余、周回欠ク、村ノ東ニアリ、嶺上ヨリ二分シ、北面ハ夛称(祢ヵ?)寺村ニ属シ、余ハ本村ニ属ス、山脈東北ニ連亘ス、全山柴芽ヲ生ス、登路アレトモ小逕ナレハ欠ク>
●川 黒田川<深一尺、巾二間、清ニシテ急、長四町十間、北方夛称(祢ヵ?)寺村界ヨリ来リ、村ノ中央ヲ貫キ南方平村界ニ入ル>、黒田橋<村往還ニ属ス、架シテ村ノ東方黒田川下流ニアリ、長二間半、巾一間、土造>、壱之溝<本村字神子谷ヨリ発シ、本村ノ田若干歩ヲ養ヒ下流黒田川ニ入ル、長六町四十間、巾三尺、本村ノ田若干歩ノ養水トス>、二之溝<本村字浄土寺山間ヨリ発シ下流黒田川ニ入ル、長六町四十間、巾二尺、本村ノ田若干歩ノ養水トス>、三之溝<本村字柿安山ヨリ発シ、田若干歩ヲ養ヒ末平村界ニ入ル、長六町廿間、巾三尺>、四之溝<本村字木坂山ヨリ発シ、本村ノ田若干歩ヲ養ヒ下流平村界ニ入ル、長四町十間、巾三尺>
●道路 村道<南方平村界ヨリ北方夛称(祢ヵ?)寺村界ニ至ル、長五町五間、巾一間>
●堤塘 黒田川堤<黒田川ニ沿ヒ、北方夛称(祢ヵ?)寺村界ヨリ南方平村界ニ至ル、長四町十間、馬踏三尺、堤敷一間>
●社 椋森神社<社地東西十三間、南北十二間、面積百三十六坪、本村ノ東ニアリ、祭神詳ナラス、祭日陰暦七月廿三日、境内末社一座アリ>
●古跡 巨勢金岡古宅跡<村ノ北ニアリ、丹後旧記曰、加佐郡志楽庄赤野村ハ巨勢金岡ノ旧領ナリ、其舘舎ノ跡ナリトテ今、田間ニ残ル蓋、其爰ニ居ルヲ以テ金岡図画丹後ニ多シ、金岡ノ丹後ニ居ル、国史ニ見ヘストイヘトモ著聞集ニ略其事ヲ載セタリト>
●物産 桐実<三十石>、繭<七十貫目>、薪<七千五百貫目>、已上舞鶴市街ニ販売ス
●民業 男<農ヲ業トスル者三十二戸>、女<農ヲ専トシ養蚕ヲ兼ヌル者六十六人、余ハ雑業>