大山村 郡村誌

 現在の舞鶴市大山(オオヤマ)。明治17年当時、戸数 27戸、社2戸、寺1戸、総計30戸、人数 男95口、女86口、総計181口。

・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

    村誌

丹後國加佐郡大山(オホヤマ)村

本村古時神戸郷ニ属ス、然トモ此郷今全ク湮滅シ近古ヨリ志楽郷ニ属セシ者ノ如シ、本村以下十一ヶ村即<平村・西屋村・赤野村・観音寺村・河邉原村・中田村・河邉中村・河邉由里村・杤尾村・多称(祢ヵ?)寺村・室牛村>ヲ総称シテ河邉ノ庄ト称セシヲ以テスレハ、文字ハ相違スレトモ訓ノ通スルヲ以テ中古郷名ヲ転シテ庄名トナセシモノナルカ、佗ニ考証ノ拠ルヘキナシ

●疆域  東ハ若狭國大飯郡宮尾村・日引村ニ界シ、南ハ本郡杤尾村ニ界シ、西ハ野原村ニ界シ、北ハ田井村ニ界ス、四境皆環ラスニ山脈ヲ以テス

●幅員 東西二十二丁二十間、南北十五町五十間、面積欠ク

●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ

●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡三十一里三町、宮津支庁ヨリ東北方凡十三里三町、四隣東若狭國大飯郡宮尾村ヘ一里、同郡日引村ヘ一里五町、西本郡野原村ヘ三十五町二十二間<実測>、南杤尾村ヘ二十六町二十七間<実測>、北田井村ヘ二十三町<実測>

●地勢 環境皆山、土地低窪ナリ、運輸不便薪炭乏シカラス

●地味 赭色ニシテ砂礫ヲ混ス、其質中等、稍稲・粱・桑樹ニ可ナリ、水利ハ不便ニシテ時々旱害アリ

●税地 田<拾七丁五反七畝拾五歩>、畑<七丁八反八畝廿五歩>、宅地<壱丁壱反六畝弐歩>、山<反別欠ク>、薮地<五畝廿歩>、総計<廿六丁六反八畝弐歩、外荒地弐反八畝拾四歩>

●字地 中田<村ノ東ニアリ、東西一丁六間、南北三丁二十七間>、村奥<中田ノ西ニアリ、東西四丁、南北一丁廿二間>、丹田<村奥ノ西ニアリ、東西二丁三間、南北三丁>、門ノ下<丹田ノ西ニアリ、東西二丁四十八間、南北一丁>

●貢租 地租<金弐百廿円五拾銭六厘>、山税<金壱円四拾五銭四厘>、総計<金弐百廿壱円九拾六銭>

●戸数 本籍二十七戸<平民>、社二戸<村社一座、無格社一座>、寺一戸<禅宗>、総計三十戸

●人数 男九十五口<平民>、女八十六口<平民>、総計百八十一口<他出寄留男五人>

●牛馬 牡牛五頭、牝牛十八頭、総計二十三頭

●山 西山<高百六丈二尺、周回欠ク、村ノ西ニアリ、嶺上ヨリ四分シ、北ハ田井・野原両村ニ属シ、西ハ観音寺村ニ属シ、南ハ杤尾村ニ属シ、東ハ本村ニ属ス、山脈東方若狭国大飯郡諸山ニ連続ス、樹木繁生ス、渓水二条、共ニ山間ヨリ発シ下流中田川トナル>

●川 中田川<深一尺、巾二間、清ニシテ急、本村西方西山ヨリ発源シ北方野原村界ニ入ル、長九丁十間>、森上川<本村山間ヨリ発水シ本村ノ耕地ニ入ル、長三丁、巾一間、平時水流ヲ見ス、霖雨ノ際暴漲ス、下同シ>、村奥川<同上山間ヨリ発水シ本村ノ耕地ニ入ル、長三丁二十間、巾一間>、黒瀧川<同上山間ヨリ発水、北方田井村界ニ入ル、長二丁五十間、巾一間>、中田溝<中田川ノ分水ニシテ本村ノ田若干歩ノ養水トス、長四十間、巾五尺>、丹田溝<奥川ヨリ分水シ、本村ノ田若干歩ヲ養ヒ下流又奥川ニ入ル、長一丁四十間、巾四尺>、門ノ下溝<森上川ヨリ分水シ本村ノ田若干歩ノ養水トス、長二丁四十六間、巾三尺>

●道路 村道<南方杤尾村界ヨリ北方田井村界ニ至ル、長二十三丁、巾一間、本村字佐古田ヨリ左ニ折レ北方野原村ニ通スル支道アリ>

●社 八幡社<村社々地、東西十三間半、南北十二間半、面積百六十九坪、村ノ南ニアリ、誉田別命・大山咋命ヲ祭ル、古来ノ沿革詳ナラス、祭日九月十五日、境内末社二座アリ>、愛宕神社<社地東西四間、南北三間、面積十二坪、村ノ南ニアリ、迦具土神ヲ祭ル>

●寺 江正庵<境内東西十一間、南北十一間半、面積百二十七坪、村ノ中央ニアリ、禅宗、本郡田井村海臨寺末、明徳三年壬申僧曇翁開基、爾後衰微セシヲ安永六年丁酉三月僧方岩中興ス>

●物産 桐実<百五十石>、炭<三百俵>、繭<二百五十斤>、以上舞鶴市街ニ輸送ス

●民業 男<農ヲ業トスル者二十七戸>、女<農ヲ業トシ養蚕ヲ兼ヌル者四十五人>

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