現在の舞鶴市大丹生(オオニュウ)。明治17年当時、戸数 46戸、社2戸、寺1戸、総計49戸、人数 男135口、女119口、総計254口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後國加佐郡大丹生(オオニフ)村
本村古時志楽郷四所浦ノ部内タリ、尓後分合変換ナシ
●疆域 東ハ同郡多稱寺村ト字イギス山ヲ以テ界シ、南ハ平・佐波賀・千歳ノ三村ト日陰山ヲ以テ界シ、西ハ白杉村ト内海ヲ隔テ相対シ、北ハ赤坂山ヲ以テ瀬﨑村ト界シ、又千歳村●飛地ト耕地ヲ以テ界ヲ接ス
●幅員 東西二十一町、南北十五町三十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡三十里二十三町、宮津支庁ヨリ東北方凡十二里二十三町、四隣東平村ヘ一里二丁十九間<実測>、南千歳村ヘ十五町九間<実測>、北瀬﨑村ヘ二十六町五十三間<実測>
●地勢 全境山岳重畳シ西方一帯海水彎入ス、舟楫ノ利極テ便ナリ薪炭乏シカラス
●地味 其色黒砂礫ヲ混ス、其質下等、稍稲禾ニ可ナルノミ、水利ハ甚タ便ナリ
●税地 田<■丁壱畝■壱歩>、畑<拾丁五反四畝拾七歩>、宅地<壱丁六反三畝拾四歩>、山<反別欠ク>、総計<三拾弐丁壱反九畝廿弐歩、外荒地六反壱畝九歩>
●字地 サガキ<本村東ヨリ西ニ連ル、下同シ、東西二丁十五間、南北四十一間>、イ子ゴ<東西二丁四十間、南北五十五間>、石ヶ坪<東西二丁三十間、南北一丁八間>、西子<東西二丁四十二間、南北一丁五十五間>、由里下<東西四丁三十二間、南北一丁五十間>、和田美<東西二丁七間、南北二丁四十間>、仲地<東西二丁十八間、南北一丁五十間>、上ノ山<東西四丁廿六間、南北二丁四十間>
●貢租 地租<金三百五拾八円五拾三銭六厘>、山税<金壱円九拾三銭七厘>、国税<金廿八円六拾銭>、総計<金三百八拾九円七銭三厘>
●戸数 本籍四十六戸<平民>、社二戸<村社一座、無格社一座>、寺一戸<禅宗>、総計四十九戸
●人数 男百三十五口<平民>、女百十九口<平民>、総計二百五十四口
●牛馬 牡牛一頭、牝牛十頭、総計十一頭
●舟車 日本形舩三十二艘<五十石未満農業舩>
●山 イギス山<高百八丈八尺、周回欠ク、村ノ東方ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東ハ多称寺村ニ属シ、北ハ瀬﨑村ニ属シ、西南ハ本村ニ属ス、山脈東西ニ連延ス、満山柴草ヲ生ス、渓水一条、山間ヨリ発シ下流イギス川ニ入ル>、日陰山<高五十二丈八尺、周回欠ク、村ノ南方ニアリ、嶺上ヨリ四分シ、南ハ佐波賀村ニ属シ、西ハ千歳村ニ属シ、東ハ平村ニ属シ、北ハ本村ニ属ス、山脈南方千歳村山ニ連ル、樹木茂生ス>
●川 イギス川<深所五寸、浅所二寸、広所三間、狭所五尺、長廿五丁十五間、清ニシテ緩、村ノ東方多称寺村界ヨリ本村中央ヲ貫キ下流内海ニ入ル>、大橋<村往還ニ属ス、架シテ村ノ南方イギス川下流ニアリ、本村ヨリ千歳村ニ通ス、長四間、巾七尺、木製、下同シ>、小橋<同上、架シテ村ノ中央字小川ニアリ、長三間、巾一間>
●道路 村道二<一ハ東方平村界ヨリ西方千歳村飛地界ニ至ル、長三十丁四十七間、巾五尺、一ハ本村元標ヨリ南方千歳村界ニ至ル、長八丁四十五間、巾五尺>
●社 大丹生神社<村社々地、東西十一間、南北十六間三分、面積百七十九坪、村ノ南方ニアリ、大山咋命ヲ祭ル、祭日七月三十一日、境内末社四座アリ>、熊野神社<社地東西十間三分、南北七間、面積七十二坪、村ノ東ニアリ、伊弉諾尊ヲ祭ル、祭日六月十七日>
●寺 洞春庵<境内東西十二間、南北五間六分、面積六十七坪、村ノ北ニアリ、禅宗、本郡田井村海臨寺末、永徳三年癸亥、僧曇翁開基創立ス、其後衰微セシヲ宝暦九年己卯、僧要巖再興ス>
●学校 人民共立小学校一所<村ノ北ニアリ、生徒男四十六人、女一人>
●物産 苧<四十貫目>、炭<三百俵>、蜜柑<三千貫目>、枇杷<二千貫目>、以上舞鶴市街ニ輸送ス
●民業 男女皆農ヲ業トス