現在の舞鶴市田中(タナカ)。明治17年当時、戸数 49戸、社1戸、寺1戸、総計51戸、人数 男129口、女135口、総計264口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後國加佐郡田中(タナカ)村
本村徃古志楽郷ニ属シ志樂谷<市場・泉源寺・田中・安岡・小倉・鹿原・吉坂・松尾>ノ部内タリ、元合一ニシテ日下部村ト称シ、又春日部村ト唱ヘシヲ何レノ頃カ分割シ、各其村称ヲ用ウ<田辺府志曰、市場村ヨリ松尾村迄志楽庄ト云フ、元来日下部村ト云、古来奈良西大寺領地、収物滞ニ付一色左京太夫ヲ頼ミ田中ノ大嶋但馬ヲ頼ミテ納未取立奈良ニ送ル、併シ労シテ無功事ユヘ後ハ但馬押領ス、其后大嶋御家人トナル、地頭替但シ日下(クサカ)部春日大明神ノ社頭故春日部村ト云フトアリ>
●彊域 東ハ同郡安岡村、西ハ泉源寺村ト共ニ山嶺或ハ耕地ヲ以テ界シ、南ハ小倉村ト志樂川中央ヲ以テ界シ、北ハ吉野村ト山嶺ヲ以テ区域ヲナス
●幅員 東西十二町五十五間、南北九町十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十六里二十五町、宮津支庁ヨリ東南方凡八里、四隣東安岡村ヘ九町五十五間<実測>、南小倉村ヘ八町、西泉源寺村ヘ十一町<実測>
●地勢 北方連山ヲ負ヒ南方志楽川ヲ帯フ、中部耕田連接シ人家都テ山腹ニ沿フ、運輸不便薪炭共ニ乏シ
●地味 赤色粘性砂礫ヲ交ヘ中等質タリ、稲・麦ニ可ナルノミ、水利不便ニシテ時々旱ニ苦ム
●税地 田<三拾町六反弐畝弐拾三歩>、畑<拾町壱反弐畝七歩>、宅地<弐町七反六畝弐拾六歩>、山<反別欠ク>、藪地<壱反四畝八歩>、林<八畝六歩>、総計<四拾三町七反四畝拾歩、外荒地七反拾八歩>
●字地 大向<本村西方ニ位ス、東西五町九間九分、南北二町十五間>、花ノ木<同上、東西三町四十五間、南北二町三十五間>、廣岡<村ノ東南方ニ位ス、東西一町二十五間、南北二町九間・・>、中田<同上、東西四町四十五間、南北二町十三間>、野田<村ノ東方ニ位ス、東西一町三十五間、南北三町>、成末<同上、東西二町五間、南北三町十間>、土中<同上、東西一町二十間、南北二町四十間>、大川<同上、東西四町三十三間、南北一町三十間>、下ノ宮<村ノ西方ニ位ス、東西六町十五間、南北三町二十一間>、民シゲ<村ノ東方ニ位ス、東西六町、南北四町五十三間>、安井<村ノ東南ニアリ、東西二町十間、南北二町三十五間>
●貢租 地<金五百五拾四円弐拾六銭弐厘>、山税<金五拾四銭五厘>、国税<金拾三円九銭三厘>、総計<金五百六拾七円九拾銭>
●戸数 本籍四十九戸<平民>、社一戸<村社>、寺一戸<禅宗>、総計五十一戸
●人数 男百二十九口<平民>、女百三十五口<平民>、総計二百六十四口
●牛馬 牝牛十一頭
●山 威光山<高凡九十丈、周回三十町、当村北方ニアリ、全山本村ニ属ス、山脈東西ニ連続ス、樹木生セス只柴芽ヲ見セルノミ>
●川 志楽川<深所三尺、浅所一尺、広所三間半、狭所二間半、長十四町十五間、緩流ナリ、海水逆行シテ鹹味ヲ含ム、東方安岡・小倉両村界ヨリ来リ、本村南境ヲ通シ西方小倉・泉源寺両村界ニ入ル>、井溝<本村字池シリヨリ起リ字中田ニ至リ志楽川ニ入ル、長七町二十九間二分、巾四尺、本村ノ田若干歩ノ用水トス、下同シ>、井溝<本村字安井ヨリ起リ字大向ニ至リ泉源寺村ノ耕地ニ入ル、長九町五十八間二分、巾三尺>
●道路 若狭道<西方泉源寺村界ヨリ南方小倉村界ニ至ル、長四町、巾二間>、村道二<一ハ西方泉源寺村界ヨリ東方安岡村界ニ至ル、長十町十三間、巾一間、一ハ南方小倉村界ヨリ字宮ノ上ニ至ル、長一町二十三間五分、巾一間>
●掲示場<本村西方字宮ノ上ニアリ>
●堤塘 志楽川堤<志楽川ニ沿ヒ道路ヲ兼ヌ、西方泉源寺村界ヨリ東方安岡村界ニ至ル、長十四町十五間、馬踏四尺、堤敷三間半、水量定杭長七尺、修繕費用ハ官ニ属ス>
●社 鈴鹿神社<村社々地、東西十七間、南北六間半、面積百十坪、本村西方字宮ノ上ニアリ、志束神・箭取神・鈴鹿神ヲ祭ル、祭日九月二十三日、境内末社二座アリ>
●寺 金龍寺<境内東西二十一間、南北二十間、面積二百九十五坪、禅宗、本郡田井村海臨寺末、村ノ東方ニアリ、創建年代詳ナラス、至徳三年丙寅、僧曇翁中興シ後衰微セシヲ、某年僧宗悟再建ス>
●民業 男女皆農ヲ業トス