現在の舞鶴市栃尾(トチオ)。明治17年当時、戸数 40戸、寄留1戸、社1戸、寺1戸、総計43戸、人数 男100口、女90口、総計190口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後國加佐郡杤尾(トチオ)村
本村古時神戸郷ニ属スト云、然トモ此郷名今全ク湮滅シテ存セス、故ニ近古ヨリ志楽郷ニ属セシモノノ如シ、即チ本村以下十一ヶ村<平村・夛称(祢ヵ)寺村・中田村・河辺中村・西屋村・河辺由里村・室牛村・観音寺村・赤野村・河辺原村・大山村>ヲ河邉ノ荘ト称スルヲ按スレハ、文字ハ相違スレトモ訓ノ相通スルヲ以テ中古郷名ヲ変シテ荘名トナセシモノ歟、他ニ考証ノ拠ベキナシ
●疆域 東ハ若狭國大飯郡ト一帯ノ山嶺ヲ界シ、又本郡笹部村ト山ヲ劃リ、西ハ本郡河邉原村ト耕地ヲ界シ、北ハ大山村・野原村・観音寺村ト野山ヲ以テ界シ、南ハ登尾村・朝来中村ト又山ヲ以テ界ス
●幅員 東西十六丁四十間、南北二十五町二十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西南(北ヵ)方本村元標ニ達スル凡三十里十三町、宮津支庁ヨリ東北方凡十二里十三町、四隣西河邉原村ヘ九町三十八間<実測>、北観音寺村ヘ十町四間
●地勢 環境皆山ニシテ西部梢開濶、土地最高燥ナリ、運輸不便薪炭乏シカラス
●地味 大略三種アリ、是ヲ概別スレハ白堊沙礫ヲ混スルモノ七分、赭色瘠土ノモノ一分、黒色ニシテ砂礫ヲ帯フルモノ二分、其質都テ下等、稍稲禾ニ可ナルノミ、水利ハ極テ不便ナリ
●税地 田<三拾壱丁四反八畝弐歩>、畑<四丁七反壱畝拾七歩>、宅地<壱丁弐反七畝廿壱歩>、山<反別欠ク>、総計<三拾七丁四反七畝拾歩、外荒地弐丁七反九畝八歩>
●字地 高岸<村ノ西南ニアリ、東西一丁二十五間、南北六十間>、畑中<村ノ西方ニアリ、東西五十間、南北一丁二間>、戸口<同上、東西四十八間、南北三十二間>、縄手<同上、東西二丁三十間、南北一丁五十間>、中池<同上、東西三十五間、南北六丁>、深谷<村ノ北方ニアリ、東西三十五間、南北六丁>、ノケ<同上、東西五十五間、南北二丁五十二間>、奥地<同上、東西二丁、南北三丁四十間>
●貢租 地租<金三百六拾三円廿九銭>、山税<金八拾九銭>、総計<金三百六拾四円拾八銭>
●戸数 本籍四十戸<平民>、寄留一戸<平民>、社一戸<無格社>、寺一戸<禅宗>、総計四十三戸
●人数 男百口<平民>、女九十口<平民>、総計百九十口<外寄留男一人>
●牛馬 牝牛十一頭
●山 御所谷山<高百四丈四尺、周回欠ク、村ノ南ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東南ハ朝来中村ニ属シ、西南ハ河辺原村ニ属シ、北面ハ本村ニ属ス、山脈東北方若狭国大飯郡諸山ニ連亘ス、樹木生セス、只柴芽ノミ生ス、登路数条アレトモ鳥逕獣路ノミ>、以下小峰多ケレハ欠ク
●川 河邉川<深一尺五寸、巾一間、清ニシテ急、本村字峠ヨリ発水シ西方河辺原村界ニ入ル、長二十五丁三十四間>、深谷川<本村字深谷ヨリ発水シ、字高岸ニ至リ河辺川ニ入ル、長十丁、巾一間半、平素水流ヲ見ス、霖雨ノ際暴漲ス、下同シ>、奥地川<本村字奥地ヨリ発注シ、字中路ニ至リ河辺川ニ入ル、長十丁五十間、巾一間>、西山川<本村字細野ヨリ発源シ、字縄手ニ至リ河辺川ニ入ル、長十丁、巾一間>
●湖沼 上野池<村ノ東方ニアリ、東西十間、南北九間、本村ノ田若干歩ノ養水ニ供ス>
●道路 村道<東北方大山村界ヨリ西南方河辺原村界ニ至ル、長二十六丁四十六間、巾一間、本村字稗田尻ヨリ東折シ大飯郡鎌倉村ニ通スル支道アリ>
●社 愛宕神社<社地東西五間、南北四間半、面積二十坪余、村ノ北ニアリ、祭神迦具搥命、祭日陰暦六月廿四日>
●寺 極楽寺<境内東西十五間、南北七間半、面積百一坪、村ノ西ニアリ、禅宗、本郡田井村海臨寺末、應永十二年乙酉七月創建シ僧曇翁開基ス、其後衰微セシヲ萬治四年辛丑二月、僧巻補中興ス>
●物産 桐実<八十三石>、繭<十貫目>、以上舞鶴市街ニ輸送ス
●民業 男<農ヲ業トスル者四十戸>、女<農ヲ業トスル者五十四人>