現在の舞鶴市与保呂(ヨホロ)。明治17年当時、戸数 141戸、社2戸、寺1戸、総計144戸、人数 男325口、女312口、総計637口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後国加佐郡與保呂(ヨホロ)村
本村古時高橋郷ニ属シ與保呂ノ里<風土記作仕丁>ト称ス、風土記云、所以号與保呂者、古老伝曰、往昔依于豊宇気大神之神勅、於此地神人仕丁等(カムヘヨホロヲ)被置之故、云与保呂矣ト、元ト与保呂上村ト称シ、同与保呂下村<今ノ木ノ下村>ト合一タリシヲ、慶長中分離スト
●疆域 東南二方ハ丹波国何鹿郡老留・五泉ノ両村ト字護磨八代ノ山岳ヲ以テ界シ、西ハ本郡木ノ下村・行永村ト字菅坂ヲ称スル耕地ヲ劃リ、北ハ夛聞院村・堂奥村ト字吉国・青路等ノ山地ヲ以テ界ス
●幅員 東西十九町三十五間、南北一町三十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十七里十五町、宮津支庁ヨリ東南方凡九里、四隣東南何鹿郡五泉村界ヘ三十四町四十一間<実測>、北本郡堂奥村ヘ二十四町四十六間<実測>、西木ノ下村ヘ六町
●地勢 三面連山ヲ負ヒ西方田野闢ケ木ノ下村耕地ニ接ス、運輸不便薪足リ炭乏シ
●地味 其色赤黒砂礫ヲ混ス、略稲粱ニ可ナリ、水利稍便ナルモ川身浅薄ナルヲ以テ時々旱損アリ
●税地 田<五拾四町五反七畝弐拾壱歩>、畑<八町五畝弐拾壱歩>、宅地<四町五反九畝拾九歩>、山<反別欠ク>、薮地<壱畝壱歩>、総計<六拾七町弐反四畝弐歩、外荒地拾弐町六反九畝七歩>
●字地 堀口<村ノ東南ニアリ、東西五十九間、南北一町五十七間>、鳥ノ道<村ノ西ニアリ、東西四町四十二間、南北一町三十八間>、才垣(サイガキ)<村ノ北ニアリ、東西二町四十五間、南北一町五十八間>、以上著名ノ字ヲ挙ク余ハ略ス
●貢租 地租<金五百八拾四円四拾五銭五厘>、山税<金壱円七拾銭五厘>、総計<金五百八拾六円拾六銭>
●戸数 本籍百四十一戸<平民>、社二戸<村社一座、無格社一座>、寺一戸<禅宗>、総計百四十四戸
●人数 男三百二十五口<平民>、女三百十二口<平民>、総計六百三十七口
●牛馬 牡牛十三頭、牝牛三十五頭、総計四十八頭
●山 四境山岳囲繞スト雖トモ一帯山脈ニシテ特ニ名状シテ表出スヘキナシ、因テ欠ク
●川 与保呂川<深尺ニ過キス、水清流急ナリ、巾六間、源ヲ村ノ字護磨谷ヨリ発シ、本村中央ヲ過キ西方木ノ下村界ニ入ル、長一里六町十七間>、青路橋<村往還ニ属ス、架シテ村ノ西方与保呂川下流ニアリ、橋長六間、巾三尺、木製、已下同シ>、立原橋<同上、架シテ村ノ中央与保呂川ニアリ>、馬ノ道溝<与保呂川ノ分派ニシテ村ノ西方字鳥ノ道ヨリ分水シ、田若干歩ヲ養ヒ末与保呂川下流ニ入ル、長一町二十間、巾通シテ二間>、才垣溝<同上分水ニシテ村ノ中央字才垣ヨリ起リ、田若干歩ノ用水ニ供ス、長二町>、仲ノ坪溝<同上分派ニシテ村ノ東北字仲ノ坪ヨリ分水シ、数派ニ分レテ田数町歩ヲ養ヒ共ニ末与保呂川ニ入ル、長三町、巾各二尺許>
●道路 村道二<一ハ村ノ東南方何鹿郡五泉村界ヨリ西方本郡木ノ下村界ニ至ル、長一里六町十七間、巾五尺、一ハ村ノ西方字青路ヨリ起リ北方堂奥村界ニ至ル、長七町四間、巾四尺>
●掲示場<村ノ東口ヨリ十町許ニアリ>
●堤塘 与保呂川堤<与保呂川ニ沿ヒ、本村字堀口ヨリ起リ西方木ノ下村界ニ至ル、長十二町、馬踏一間半、堤敷三間、修繕費用ハ官民両途ニ属ス>
●社 日尾神社<村社々地、東西十八間、南北十間、面積百八十坪、村ノ東ニアリ、創立年代詳ナラス、天日尾神・国日尾神・天月尾神・国月尾神ヲ祭ル、祭日九月十日、境内末社二座アリ>、愛宕神社<社地四履欠ク、面積四十九坪、字宮森ニ鎮座ス、伊弉冊尊・火産霊命ヲ祭ル、創建年代詳ナラス>
●寺 報恩院<境内東西二十間九分、南北十間、面積二百九坪、村ノ中央ニアリ、禅宗、本郡余部下村雲門寺末、康暦元年己未三月、檀徒建立、僧普明ヲ以テ開基トス>
●学校 人民共立小学校一所<村ノ中央ニアリ、生徒男四十五人、女三人>
●物産 大豆<八石>、桐実<七十石>、以上舞鶴市街ニ輸出ス
●民業 男女皆農ヲ業トス