明治前期の山論と裁判、近世文書の効果

 明治6~20年代に発生した、加佐郡多門院と溝尻の山の入会をめぐる山論と裁判について、多門院区有文書(多門院区所蔵)を対象資料として、全体の流れを分析した。3回にわたる裁判では、1回目は多門院の主張が通るが、その後は上級裁判所へ移り、溝尻の勝訴になったと思われる。その際、多門院は実際の利用や慣行、また明治以後の蓬艾摘手札、地券、山税支払、山焼願を、溝尻は明和、天保期など主に近世文書を証拠として主張を展開した。実際には、多門院の主張通り、村内の一部の山に限り溝尻・堂奥へ入会させている状態であったと思われる。

 しかし明治6年当初から近世文書を証拠として提示できる能力を持ち、旧大庄屋家が村内に存在し、旧地方藩吏まで巻き込んだ溝尻が、最終的に新たな権利を獲得した。多門院区は、この裁判の過程で文書の反古も捨てずに保管する意識に変化していき、現在の区有文書が形成されたといえる。

出典:京都府立大学文化遺産叢書14『舞鶴・京丹後地域の文化遺産』37-47頁、2018

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