舞鶴市多門院区有文書解題−近代の山論・裁判と文書群形成

多門院区有文書は、舞鶴市多門院区が所蔵する合計275件280点の文書群である。

近世文書は、慶長7年(1602)の慶長検地帳と考えられる「加佐郡多門院村水帳」、享保12年(1727)正月「多門院村御検〆書之写、仕出目録改」と少ない。ほとんどが明治期で206点あり、多門院と溝尻の山論時期である明治6~20年(1873~1887)の15年間に143点と集中している。

 この山論は、多門院の野山を溝尻が入会山だと主張し、明治6年から20年にかけて大審院まで争われた裁判である。裁判の過程で数多くの上申、答弁や証拠が提出されたため、その根拠となった文書群を収集しまとめられた。

出典:京都府立大学文化遺産叢書14『舞鶴・京丹後地域の文化遺産』8-9頁、2018

本文

 1多門院区有文書の調査
多門院区有文書は、舞鶴市多門院区が所蔵する合計275件280点の文書群である。
文書の調査は、2016年2月20日新谷一幸氏が舞鶴市郷土資料館へ文書の一部を持参されたことから存在を確認し開始した。それら文書に番号を付与し撮影を行い、目録を作成した。その後、8月6~7日現地多門院公民館において文書全体を確認し、舞鶴地方史研究会の会員の方とともに調査した。全体は木製箱に保存され、現状を維持し順番に取り上げ番号を付した。12月27日2回目の現地調査で、文書全点の撮影が終了した。そのため2017年度は府立大学内で、残りの目録作成、内容の見直しを行い、11月23日現地で再度撮影、内容確認を行い目録が完成した。

  2文書の概要
 多門院区有文書は、木製の箱に納められており、箱側面に「大正三年、簿冊箱、多門院区長附」の墨書があることから、大正3年(1914)、区長保管の簿冊を中心にまとめられたといえる。文書群の年代は、近世も一部存在するが、ほぼ明治3年(1870)~昭和42年(1967)の約100年間で、箱作成以降も追加されている。近世文書は、慶長7年(1602)の慶長検地帳と考えられる「加佐郡多門院村水帳」(文書番号64、以下同)、享保12年(1727)正月「多門院村御検〆書之写、仕出目録改」(195)の2点である(有賀陽平「「加佐郡多門院村水帳」について」を参照)。
 近代文書は、推定も含めてほとんど明治期のもので206点あり、多門院と溝尻の山論時期である明治6~20年の15年間に143点と集中している。このうち明治10~16年の地券45点が含まれ、いずれも村中持または代表者名が記された井溝、堂、山林のものである。このほか大正期7点、昭和6~42年29点、不明36点である。

 3山論文書の形成
 多門院区有文書の特徴、文書群の形成過程に影響した山論文書について紹介する。この山論は、多門院の野山を溝尻が入会山だと主張し、明治6年から20年にかけて大審院まで争われた裁判である(詳細については東昇「明治前期多門院・溝尻の山論と裁判」を参照)。裁判の過程で数多くの上申、答弁や証拠が提出されたため、その根拠となった文書群を収集しまとめている。特に豊岡県での裁判が収束した明治10・11年には、山論関係の文書を編綴したり袋に収納している。それは、明治10年11月2日「山論書類合表 溝尻村出願書写」(28)、明治11年7月改「山論書類先反古同様ト雖ドモ大切也」(33)、同「山論書類」表紙「当分不用ト雖ドモ捨ル事ナラス」(42)、年代不明の「山論書類種々入」「外ニ四袋 合計五袋」(10)、「五之内二号 反故袋 加佐郡第六組多門院村山論係」(65~144袋)の記述から判明する。その後、「山論書類目録」(38)では、明治14~16年の始審となった京都裁判所宮津支庁、控訴となった大阪上等裁判所での控訴状や答書などがまとめられている。
 またこのように裁判の証拠ではない文書のなかにも、参考資料として使用された可能性を指摘できるものがある。「郵送品目記」(171)には15点の文書が記載され、その内9点は山論関係の文書と考えられる。この文書の年代は不明であるが、文中に明治6年、旧豊岡県とあること、「初審ノ答書ノ写」が明治14年2月の始審答弁であれば、同年10月の控訴以降のものと推定できる。
 それ以外の文書の多くは現存しており内容を確認できる。「本村毘沙門先年盗難ニ罹リシ時ノ書付ナリ、外ニ曰ク一切不詳」は、「毘沙門堂奥喜恩庵慶龍盗難次第」(169)である。これは元和2年(1616)頃の話を、毘沙門講中惣代が明和9年(1772)正月に写し、明治期に再度写したと思われる。「十二号」と書かれた付箋もあることから「郵送品目記」の番号と一致する。2「享保12年御検地〆書ノ写」は「多門院村御検〆書之写、仕出目録改」(195)、「壬申田畑調帳」は明治5年8月「田畑調帳」(34)、「加佐郡多門院村水帳」は「加佐郡多門院村水帳」(64)と確認できる。「田畑調帳」は、山論直前の文書であり、「此帳簿ノ内山畑高モ明記アリ、但シ本高ノ内ナリ」と注記されていることから、内容も山論と関連性が高い。その他についても、近世の小物成や山畑が記されており、関連資料とした可能性はある。しかし毘沙門堂の盗難をはじめとする近世文書3点は、裁判の証拠物にも提出されていない。詳しくは38頁を参照いただきたいが、溝尻は最初から自村の近世文書を証拠として提出しており、その後の裁判を有利に展開している。そのような状況を打開すべく、多門院は溝尻以上に年代の古い由緒を持つ話や近世文書を収集したといえるのではないだろうか。以上のことから、多門院区有文書の主要部分は、明治前期の山論への対応の中で形成された文書群といえる。

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