現在の舞鶴市桑飼下(クワガイシモ)。明治17年当時、戸数 81戸、社5戸、寺1戸、総計86戸、人数 男179口、女177口、総計356口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後國加佐郡桑飼下(クハガヒシモ)村
本村古時誌託郷岡田荘ニ属ス、然トモ考フ可カラス中古原村<元和二年ノ検地帳ニ拠ル>ト唱ヘシヲ、何レノ頃カ二村ニ分離シテ桑垣村<貞享二年水帳ニ拠ル>ト称シ、爾後又更ニ今ノ称ニ改ム
●彊域 東ハ同郡志高村・久田美村ト山ヲ以テ界シ、西南ハ桒飼上村ト諸岡陵及ヒ耕地ヲ以テ界シ、北ハ岡田由里村・地頭村ト大雲川中央ヲ以テ界ス
●幅員 東西二十四町二十間、南北十四町二十間、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十七里十町、宮津支庁ヨリ南方凡五里十町、四隣西南桒飼上村ヘ十二町五十四間<実測>、東北志高村ヘ二十四町三十二間、北岡田由里村ヘ六町三間半、西北地頭村ヘ十五町四十四間七分
●地勢 南方山岳深奥、北方大雲川ヲ帯フ、土地㝫窪一ナラス、人家概二部ニ分ル、運輸便利薪炭乏シカラス
●地味 平地ハ青色粘性、山地ハ赤黒錯雑、其質都テ上等、稲梁ニ冝シクシテ、桑・茶ハ最適セリ、水利ハ不便ニシテ時々旱害アリ
●税地 田<弐拾八丁九反五畝廿六歩>、畑<拾八丁九反五畝廿三歩>、宅地<弐丁三反三畝拾四歩>、山<反別欠ク>、藪地<弐反壱畝七歩>、総計<五拾丁四反六畝拾歩、外荒地七畝壱歩>
●飛地 本村西方桒飼上村ノ内田<五反三畝廿三歩>、畑<壱丁三反八歩>宅地<九畝廿九歩>
●字地 蛇ケ鼻<村ノ東方ニアリ、東西六丁四十間、南北二丁>、原谷<村ノ東南ニアリ、東西三丁四十間、南北十丁>、御局<村ノ東ニアリ、東西四丁十間、南北三丁四十間>、家地<村ノ中央ヲ云フ、東西六丁四十間、南北二丁三十間>、荒神前<村ノ西ニアリ、東西四丁五十間、南北二丁五十間>、稲詰<村ノ南方ニアリ、東西四丁五十間、南北三丁二十間>
●貢租 地租<金五百拾壱円九拾五銭三厘>、山税<金八拾銭八厘>、国税<金弐拾八円九拾七銭>、府税<金三円七拾五銭>、総計<金五百四拾五円四拾八銭壱厘>
●戸数 本籍八十一戸<平民>、社五戸<村社二座、無格社三座>、総計八十六戸
●人数 男百七十九口<平民>、女百七十七口<平民>、総計三百五十六口
●牛馬 牡牛一頭、牝牛十一頭、総計十二頭
●舟車 日本形舩十艘<五十石未満荷舩九艘、渡舩一艘>
●山 赤尾山<高凡七十五丈、周回欠ク、村ノ南方ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東ハ久田美・志高南村ニ属シ、西ハ桒飼上村ニ属シ、北面ハ本村ニ属ス、山脈西南方鬼ヶ城山ニ連リ、東方堂ヶタワ・桜堂等の諸山ニ亘ル、樹木鬱葱ス、登路二条、一ハ本村字赤尾尻ヨリ南方ニ向ヒ上ル昇リ凡五丁許険ナリ、一ハ本村字小田中ヨリ西南ニ向ヒ上ル昇リ凡十丁許易ナリ、渓水三条、一ハ字大谷ヨリ発ス、深一寸、巾二尺、長五丁六間、字大谷田ノ用水ニ供シ、字稲詰ニ至リ桒飼上村ニ入ル、一ハ字堂カタワヨリ起リ、深二寸、巾四尺、長十五丁廿五間、字原谷田ノ用水ニ供シ、下流原谷川トナル、一ハ字桜堂ヨリ起リ、深一寸、巾二尺五寸、長五丁十一間、字同上ノ田ノ用水ニ供シ、下流大雲川ニ入ル>
●川 大雲川<二等河ニ属ス、深所一丈、浅所二尺、巾一丁余、濁ニシテ緩、舟筏通ス、西北方桒飼上村界ヨリ来リ、東方志高村界ニ入ル、長廿四丁>、原谷川<深四尺、巾一間、清ニシテ急、源ヲ本村字堂カタワヨリ発シ、北流シ字江ノ口ニ至リ、大雲川ニ入ル、長十五丁廿五間>、桒飼渡<岡田谷往還ニ属ス、本村ヨリ廿一間、深一丈、巾一丁一間、本村北方大雲川ニアリ、渡舩一艘私渡ナリ>、江ノ口𣘺<舞鶴道ニ属ス、架シテ村ノ東方原谷川下流ニアリ、橋長二間、巾一間、石造>、漕池溝<本村字堂ノ奥池ヨリ起リ、字原谷ニ至リ、二派ニ分レ、一ハ字八反ケ坪ノ田ニ入リ、一ハ字町田頭ニ至リテ、又二脈ニ分レ、其一ハ字町田ノ田ニ入リ、一ハ字原縄手ノ田ニ入ル、長十一丁四十一間、巾一尺田拾弐丁五反四畝壱歩ノ用水ニ供シ、字三倉谷縄手ニ至テ、江溝ニ入ル>
●湖沼 上沼(カミヌマ)<東西五十二間、南北十七間、周回二丁十七間、村ノ西南ニアリ、本村字馬場ノ下ノ田ノ用水トス>、下沼(シモ)<東西一丁、南北十四間、周回二丁九間、村ノ南方ニアリ、本村字タイトノ田ノ用水トス>
●道路 舞鶴道<村ノ西北、桒飼上村界ヨリ東方志高村界ニ至ル、長二十四丁六間一尺、巾二間、路傍僅ニ松ノ並木アリ、本村北方字渡シ場ヨリ北ニ折レ、岡田谷ニ通スル支道アリ>
●堤塘 大雲川堤<大雲川ニ沿ヒ、村ノ西北、桑飼上村界ヨリ東方字桜堂ニ至ル、長十八丁四十六間、馬踏平均二間、堤敷広所六間、狭所二間三分、水量定杭三丈三尺、根堅メ小竹アリ、修繕費用官民両途ニ属ス>、原谷川堤<原谷川ニ沿ヒ、村ノ南方字大工田ヨリ北方字同上ニ至ル、長一丁十三間、馬踏三尺、堤敷一間>
●社 伊智布西(イチフセ)社<村社々地、東西三十六間、南北五十間、面積千二百五十二坪、本村西南字杦ヶ迫ニアリ、伊弉冊命ヲ祭ル、延喜五年乙丑創建ニ掛ルト、祭日七月十七日、境内末社七座アリ>、原谷社<村社々地、東西二十四間、南北三十間、面積六百七十八坪、本村東南ニアリ、奥津彦命・奥津姫命・火産霊命ヲ合祀ス、勧請年紀詳ナラス、下同シ、祭日七月十七日、境内末社三座アリ>、愛宕社<社地、東西十八間、南北五間、面積二十坪、村ノ南方ニアリ、伊弉冊命ヲ祭ル、相傅フ、徃古本村中辻堂ニアリシヲ、享保十五年庚戌六月十四日此所ニ移スト、降テ元文二年丁巳十月廿六日再建ス、祭日七月卅日>、秋葉社<社地、東西三間三尺、南北八間、面積十二坪、村ノ南方ニアリ、祭神由緒不詳、下同シ、祭日六月十八日>、山祇社<社地、東西五間、南北四間、面積十二坪、村ノ南方ニアリ、祭日十二月十五日>
●古跡 古城墟<村ノ東南ニアリ、東西凡二十五間、南北凡五十間、回字形ヲナス、永禄ノ頃、一色氏ノ臣兵部詮忠此ニ拠ル、天正中ニ至リ、長岡氏ノ為ニ亡フ>、北ノ坊址・南ノ坊址<北ノ坊ハ村ノ東南字蛇ノ鼻ニアリ、南ノ坊ハ村ノ南方字段ノタワニアリ、里俗云、天正中猶現存シテ、一色氏尊崇セシ寺ナリト、其廃亡ノ年紀、今考フ可カラス>
●物産 繭<五百貫目>舞鶴市街ニ輸送ス、生糸<二千五百斤>宮津ニ輸送ス
●民業 男<農・桑ヲ業トスル者八十一戸>、女<農・桑・養蚕・製糸ヲ兼ヌル者百二十四人>