公庄村 郡村誌

 現在の福知山市大江町公庄(グジョウ)。明治17年当時、戸数 148戸、社4戸、寺1戸、計153戸、人数 男338口、女301口、総計639口。

・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

      村誌

丹後國加佐郡公庄(グジョウ)村

本村古時河守郷ニ属ス、前後分合変換ナシ

●疆域  東ハ同郡蓼原村ト山嶺又ハ耕地ヲ以テ界シ、又常津村ト大雲川中央ヲ以テ界シ、西ハ丹波國天田郡長尾村及ヒ本郡常津村ト山嶺ヲ以テ界シ、南ハ夏間村・有田村ト大雲川中央ヲ以テ界シ、北ハ小原田村ト山嶺及ヒ耕地ヲ以テ界ス

●幅員 東西十八町十間、南北十六町十間、面積欠ク

●管轄沿革 天正中ヨリ細川藤孝ノ領地タリ、慶長五年庚午ニ至リ、細川氏豊前小倉ニ移リ京極高知代リ領ス、寛文八年戊申ニ至リ、京極氏但馬國豊岡ニ移ル、寛文九年己酉、永井尚征代リ領ス、延宝八年辛酉ニ至リ、生野代官ノ支配ニ帰ス、同九年辛酉、阿部正森代リ領ス、元禄十年丁丑、阿部氏下野國宇都宮ニ移リ奥平氏代リ領ス、享保二年丁酉、奥平氏豊前國中津ニ移リ青山幸秀代リ領ス、同年七月ニ至リ、更ニ久美濵代官ノ支配ニ帰シ、明治二年ニ至リ、久美濵県ニ属シ、同四年豊岡県管轄トナリ、同九年更ニ京都府管轄ニ帰ス

●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十三里余、宮津支庁ヨリ南方凡六里十七町、四隣西日藤村ヘ十一町六間<実測>、夏間村ヘ十二町五十間、北蓼原村ヘ十五町三十三間

●地勢 西北山岳連亘シ東南一帯大雲川ヲ通ス、河濱ノ地ハ概平坦ナリ、運輸便利薪炭乏シカラス

●地味 其色黒砂礫ヲ混ス、其質中等、稲禾ニ適セスシテ麦及ヒ桑樹ニ宜シ、平時水利ハ便ナレトモ夏秋ノ候ハ大雲川暴漲シテ往々田圃ヲ害スルコトアリ

●税地 田<弐拾壱丁九反壱畝壱歩>、畑<三拾七丁七反八畝四歩>、宅地<弐丁九反六畝拾壱歩>、山<反別欠ク>、藪地<弐丁八反六畝六歩>、総計<六拾五丁五反壱畝弐拾弐歩、外荒地壱丁弐反九畝壱歩>

●字地 下嶋(シタシマ)<村ノ東ニアリ、下同シ、東西二丁二十間、南北六丁四十間>、落谷<東西一丁十五間、南北五丁二十五間>、公庄谷<東西三丁五十間、南北三丁三十間>、浪桒<東西二丁、南北二丁五十五間>、奈小路<東西二丁二十間、南北二丁三十間>、シボウ<村ノ南ニアリ、下同シ、東西三丁五十間、南北二丁三十間>、野田<東西一丁十間、南北一丁五十間>、蛸田<東西五丁四十五間、南北二丁十間>、樋ノ口<東西一丁八間、南北三丁三十間>、谷河<村ノ中央ニアリ、東西七丁二十間、南北三丁十五間>、落谷<村ノ北ニアリ、下同シ、東西五丁十間、南北三丁>、横谷<東西五丁五十間、南北八丁>、下山<東西五丁五十五間、南北五丁五十間>、六箇<東西三丁、南北五丁五間>、稲荷<東西七丁四十七間、南北五丁五間>、鯖谷<東西十丁二間、南北四丁三十間>

●貢租 地租<金四百八拾円七拾壱銭壱厘>、山税<金壱円四拾壱銭五厘>、国税<金拾九円七拾銭>、総計<金五百壱円八拾弐銭六厘>

●戸数 本籍百四十八戸<平民>、社四戸<村社三座、無格社一座>、寺一戸<禅宗>、総計百五十三戸

●人数 男三百三十八口<平民>、女三百一口<平民>、総計六百三十九口

●牛馬 牡牛九頭、牝牛十七頭、総計二十六頭

●舟車 日本形舩三艘<五十石未満漁舩二艘、渡舩一艘>

●山 部内山岳連延スト雖一帯山脈ニシテ特ニ表出スヘキナシ、因テ略ス

●川 大雲川<二等河ニ属ス、深所一丈、浅所四尺、巾四十五間、清水緩流、舟筏日々通ス、村ノ西方日藤村界ヨリ来リ東北方蓼原村界ニ入ル、長二十二町>、六ヶ川<村ノ西北方小原田村界ヨリ来リ、本村字六日ヶ口ニ至リ大雲川ニ入ル、長二十四町余、巾二間、平時水少シ、霖雨ノ際暴漲ス、下同シ、田九反壱畝七歩ノ養水トス>、谷河(タニゴ)川<村ノ北方小原田村界ヨリ来リ、本村字谷河ニ至リ大雲川ニ入ル、長十六町二十間、巾一間半、田八丁八反七畝拾弐歩ノ養水トス>、落谷川<源ヲ村ノ北方字四ノ谷ヨリ発シ、南ニ赴キ山間ノ諸細流ヲ併セ曲流シテ東方蓼原村界ニ入ル、長十六丁五間、巾一間、田九反壱畝七歩ノ養水ニ供ス>、公庄渡<村往還ニ属ス、深所一丈、浅所四尺、巾四十四間、村ノ西南方大雲川上流ニアリ、渡舩一艘、私渡ナリ>、六ヶ橋<宮津道ニ属ス、架シテ村ノ西南方六ヶ川下流ニアリ、長四間半、巾一間半、土造、下同シ>、谷河(タニゴ)橋<同上、架シテ村ノ中央谷河川下流ニアリ、長四間半、巾一間>、落谷橋<同上、架シテ村ノ東方落谷川下流ニアリ、長二間、巾一間半>、公庄谷溝<源ヲ本村字大畑ヨリ発シ東ニ流レテ谷河池ニ入ル、長四丁五十間、巾二尺、田七反五畝拾五歩ノ用水ニ供ス>

●湖沼 樋ノ口沼二<村ノ南方ニアリ、一ハ東西一丁十間、南北十二間、周回二丁三十三間、一ハ東西一丁二間、南北十六間、周回二町十三間ナリ>、谷河池<東西二十五間、南北四十三間、周回二丁、村ノ北ニアリ、本村ノ田若干歩ノ用水トス>

●道路 宮津道<村ノ西方日藤村界ヨリ北方蓼原村界ニ至ル、長二十一丁三十六間、巾一間、本村字六ヶヨリ北ニ折レ小原田村ニ通ス、又字谷河ヨリ北ニ折レ同村界ニ通スル、両支道アリ

●社 天満神社<村社々地、東西十間、南北十四間、面積五十一坪、村ノ西ニアリ、菅原道真ヲ祭ル、勧請年紀詳ナラス、下同シ、祭日九月二十五日、境内末社一座アリ>、熊野神社<村社々地、東西十三間、南北十八間、面積百五十八坪、村ノ北ニアリ、櫛御氣命・伊邪那岐命・伊邪那美命ヲ祭ル、祭日九月二十五日、境内末社一座アリ>、齊宮神社<村社々地、東西十五間、南北十間、面積九十九坪、本村南方ニアリ、竹野姫命ヲ祭ル、相伝フ、用明天皇ノ世、麻呂子親王鬼神ヲ退治ノ為メ当国ヘ下向ノ時創建セラルト、祭日九月廿五日、境内末社一座アリ>、肥後神社<社地東西八間、南北五間、面積六十五坪、本村中央ニアリ、祭神並ニ古来ノ沿革詳ナラス、祭日三月十五日>

●寺 少林寺<境内東西二十八間、南北二十三間、面積四百二十六坪、禅宗、丹波國天田郡大呂村天寧寺末、村ノ東北ニアリ、元禄七年甲戌、僧一笑開基創建ス、其後衰微セシヲ、文化元年乙丑、僧桃嶺中興ス>

●学校 人民共立小学校一所<村ノ中央ニアリ、生徒男三十八人、女四人>

●物産 藍<八百貫目>、繭<五百貫目>、以上近傍各村ニ輸送ス

●民業 男<農・桑ヲ業トスル者七十二戸、農ニシテ商ヲ兼ヌル者五十四戸、農ニシテ工ヲ兼ヌル者五戸、農ニシテ漁猟ヲ兼ヌル者六戸>、女<農・桑ヲ業トスル者二百人、農ニシテ製糸ヲ兼ヌル者六十人>

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