公文名村 郡村誌

 現在の舞鶴市公文名(クモンナ)。明治17年当時、戸数 58戸、社2戸、寺1戸、総計61戸、人数 男127口、女101口、総計228口。

・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

    村誌

丹後国加佐郡公文名(クモンナ)村

本村往古田造郷ノ属ニシテ中筋ノ庄八ヶ村ノ部内タリ、古来変換ナシ

●疆域  東南ハ七日市村ニ隣シ真名井ノ泉ヲ以テ界シ、東北ハ伊佐津村ト耕地ヲ以テ界シ、西ハ高野由里村ト又耕地ヲ以テ界シ、西南ハ京田村・女布村ニ界シ耕地ヲ限リ、北ハ引土村ト耕地或ハ茶臼山ヲ以テ境ヲ限ル

●幅員 東西五町、南北八町、面積欠ク

●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ

●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十三里十町、宮津支庁ヨリ東南方凡七里余、四隣東北伊佐津村ヘ八町五十四間半、西高野由里村ヘ十四町五十六間、南七日市村ヘ三町二十九間<実測>、北引土村ヘ十四町二十五間半、舞鶴港ヘ二十町

●地勢 全境平濶、乾■僅ニ愛宕山ヲ負フノミ、京都道村ノ中央ヲ貫通ス、運輸極メテ便ナルモ薪炭ハ特ニ乏シ

●地味 其色淡黒、其質中等、稲粱ニ宜シク桑・茶ニ適セス、水利便ニシテ旱害ヲ受ル事稀ナリ

●税地 田<弐拾九町壱反七畝八歩>、畑<九反弐畝拾弐歩>、宅地<弐町四反壱畝拾六歩>、山<反別欠ク>、総計<三拾弐町五反壱畝六歩>

●字地 六反坪<村ノ中央京都道ニ沿フ、東西三十四間、南北一町四十四間>、八町東<村ノ北方京都道ノ東ニアリ、東西一町九間、南北一町四十三間>、アンヅ<村ノ南ニアリ、京都道ニ沿フ、東西一町三十九間、南北五十九間>、城ヶ鼻<村ノ西北茶臼山ノ麓ニアリ、東西三十六間、南北一町十一間>、八町西<村ノ北引土村ノ界ニアリ、東西五十八間、南北五十七間>、以上著名ノ字ヲ挙ク余ハ省略ス

●貢租 地租<金六百七拾三円九拾七銭五厘>、山税<金三銭九厘>、総計<金六百七拾四円壱銭四厘>

●戸数 本籍五十八戸<士族四戸、平民五十四戸>、社二戸<村社一座、無格社一座>、寺一戸<禅宗>、総計六十一戸

●人数 男百二十七口<士族十口、平民百十七口>、女百一口<士族九口、平民九十二口>、総計二百二十八口

●牛馬 牝牛十七頭

●山 茶臼山<高十五丈、周回六町、村ノ西北ニアリ、嶺上ヨリ二分シ、東南ハ本村ニ属シ、西北ハ引土村ニ属ス、全山圃地ニシテ櫨ノ木ヲ植ウ、登路一条アリ、本村字谷ヨリ上ル昇リ十七町>

●川 髙野川<深所三尺、浅所尺ニ充タス、広所四間半、狭所三間、清ニシテ緩ナリ、村ノ西方高野由里村界ヨリ西北方引土村界ニ入ル、長六町五十三間>、女布川<深五寸、巾一間三尺、清ニシテ急ナリ、南方女布村界ヨリ来リ、本村北方字城ヶ鼻ニ至リ高野川ニ入ル、長六町四十二間>、比丘尼橋<村往還ニ属ス、架シテ村ノ西方女布川上流ニアリ、橋長一間半、巾二尺五寸、石造>、西ノ川橋<村往還ニ属ス、架シテ村ノ西北方女布川下流ニアリ、橋長一間半、巾二尺五寸、石造>

●道路 京道<南方七日市村界ヨリ北方引土村界ニ至ル、長七町五十七間、巾三間半>

●堤塘 髙野川堤<高野川ニ沿ヒ、村ノ西方高野由里村界ヨリ西北方引土村界ニ至ル、長六町四十二間、馬踏五尺、堤敷三間、修繕費用ハ官民ノ両途ニ属ス>、女布川堤<女布川ニ沿ヒ、村ノ西方女布村界ヨリ北方本村字城ヶ鼻ニ至ル、長六町四十二間、馬踏二尺五寸、堤敷二間半>

●社 笠水(ウケミツ)神社<村社々地、東西二十二間、南北十五間、面積百九十六坪、村ノ北ニアリ、笠水彦神・笠水姫神ヲ祭ル、風土記云、笠水神即笠水彦命・笠水姫命之二神此則海部、直(アタヒ)等之所斎祖(イツクオヤ)神也ト、例祭八月二十三日、境内老樹及ヒ末社一座アリ>、稲荷神社<社地四覆欠ク、面積三十坪、村字城ヶ鼻ニアリ、保食神ヲ祭ル、由緒祭日共ニ詳ナラス>

●寺 公國寺<境内東西十一間三尺、南北十四間四尺、面積百七十七坪、禅宗、本郡舞鶴桂林寺ノ末派ナリ、村ノ北ニアリ、創立年代開基僧名詳ナラス>

●古跡 茶臼山城墟<村ノ西北茶臼山頂ニアリ、長沼小太夫ナル者居ルト云、事ハ引土村誌ニ詳ニス>

●民業 男女皆農ヲ専業トス

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