現在の舞鶴市上根(ウエネ)。明治17年当時、戸数 47戸、寺1戸、総計48戸、人数 男104口、女107口、総計211口。
・出典 京都府地誌32~35加佐郡村誌1~4、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
村誌
丹後国加佐郡上根(ウヘネ)村
本村古時大内郷ノ属ニシテ池ノ内谷八ヶ村ノ部内タリ、前後変換ナシ
●疆域 東ハ同郡寺田村ト野径ヲ劃リ、西ハ別所村ト池ノ内川中央ヲ以テ界シ、北ハ今田村ト青谷山ノ嶺ヲ限リ、南ハ白滝・別所ノ両村ト山嶺ヲ劃ル
●幅員 東西十九町三十間、南北三十町、面積欠ク
●管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ
●里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡二十三里半、宮津支庁ヨリ東南方凡七里半余、四隣東寺田村ヘ十二町五十七間<実測>、西別所村ヘ三十一町二十三間<実測>、南白滝村ヘ十三町二間
●地勢 東西二窄ク南北ニ長シ、巽乾二隅山ヲ負ヒ、坤ノ一方稍開ケタリ、運輸不便薪炭乏シカラス
●地味 黒色土ニシテ中等質タリ、較稲粱ニ適ス、水利ハ便ナレトモ却テ水溢ノ患アリ
●税地 田<拾弐町六反三畝弐拾四歩>、畑<三町拾五歩>、宅地<壱町五反弐畝弐拾八歩>、山<反別欠ク>、総計<拾七町壱反七畝七歩、外荒地壱町七畝弐拾九歩>
●飛地 本村東方寺田村ノ内田<三反弐拾八歩>
●字地 大谷<村ノ西南ニアリ、東西一町二十間、南北四十四間>、上清水<村ノ西ニアリ、東西四十間、南北一町二十間>、由里下<同上、東西五十間、南北三十間>、田ノ尻口<同上、東西五十間、南北一町十間>、別當<同上、東西四十間、南北一町十間>、竹ノ尻<村ノ西北ニアリ、東西四十二間、南北四十間>、中川<同上、東西四町、南北十六間>、岡八<村ノ南ニアリ、東西一町十間、南北一町四十間>、見クラ<同上、東西六町、南北一町>、寺坂口<村ノ中央ヲ云、東西一町五間、南北五十間>
●貢租 地租<金百四拾四円八拾三銭九厘>、山税<金六拾三銭壱厘>、総計<金百四拾五円四拾七銭>
●戸数 本籍四十七戸<平民>、寺一戸<禅宗>、総計四十八戸
●人数 男百四口<平民>、女百七口<平民>、総計二百十一口
●牛馬 牝牛九頭
●山 見谷山<高四十五丈、周回欠ク、村ノ西北ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東面ハ本村ニ属シ、西北二面ハ今田村・天台村・森村・行永村等ニ属ス、山脈東方丹波国何鹿郡上林山ニ連リ、西方本郡布敷村宮谷山ニ亘ル、全山紫草ヲ生ス、登路一条、字別当ヨリ上ル昇リ三町、渓水一条、山間ノ諸水ヲ集メ南流シテ、字田ノ尻口ニ至リ寺田村ノ飛地ニ入ル、下流ヲ見谷川ト云フ>
●川 池ノ内川<深所二尺五寸、浅所七八寸、広所五間、狭所四間、水源二アリ、一ハ東方寺田村界ヨリ来リ、字寺坂口ニ至リ寺田村飛地(以下飛地ト称スルハ皆寺田村分ナリ)ニ入リ、又本村字堂田ヲ経テ飛地ニ入リ、又本村字田ノ尻ヲ経飛地ニ入リ、又本村字走リ谷ヲ経飛地ニ入リ、又本村字上清水ヲ経飛地ニ入リ、又本村字下清水ヲ経飛地ニ入リ、終ニ字大谷ニ至ル、此間長十五町、一ハ西南方別所村界ヨリ来リ、本村西南境ヲ環流シ字大谷ニ至ル、此間四町以上、二水相会シ西北ニ馳セ、遂ニ別所村界ニ注ク、長合テ十九町余>、見谷口橋<村往還ニ属ス、架シテ村ノ西方見谷川下流ニアリ、橋長三間半、巾五尺、土造>、見倉橋<同上、架シテ村ノ南方池ノ内川ニアリ、本村ヨリ白滝村ニ通ス、長五間、巾六尺、土造>
●道路 村道<西方別所村界ヨリ東方寺田村界ニ至ル、長二十一町十八間、巾六尺>
●堤塘 池ノ内川堤<池ノ内川ニ沿ヒ、本村西南字大谷ヨリ起リ西北方別所村界ニ至ル、長二町三十二間、馬踏一間、堤敷二間、修繕費用ハ官民両途ニ属ス>
●寺 地福寺<境内東西十五間、南北十間、面積百五十坪、禅宗、本郡舞鶴紺屋町桂林寺末、村ノ中央ニアリ、寛永元年甲子、僧心庵開基創建ス>
●物産 桐実<五十石>、櫨実<五百貫目>、以上舞鶴市街ニ販売ス
●民業 男女専ラ農ヲ業トス