舞鶴の山城135 鬼ヶ城

おにがじょう(別名 鬼ヶ洞)

・福知山市大江町南山小字鬼ヶ城他
・遺構---曲輪、堀切、土塁、虎口、石積  ・占地---山頂
・標高---540m  ・比高---530m     ・遺跡地図番号---大江町81

 かつての丹後・丹波の国境に位置する鬼ヶ城は、丹波の天田郡、何鹿郡はもとより、丹後国にも展望のきく城館である。鬼ヶ城の城域は南北に延び、四方は急斜面となっている。

 主郭は、東西27m南北7mで幅が狭くY字形の曲輪である。南東側の石積は曲輪の拡張を図ったものである。主郭から南東尾根に三段の曲輪、北尾根には大小の六段の曲輪があり、先端は片堀切となっている。

 鬼ケ城に関する記録は多い。「日本城郭体系」では、まず、1560(永禄3)年に丹波守護代の一族で八木城主の内藤駿河守の守る鬼ケ城を、横山氏や和久氏など福知山の在地武士が破ったという説を紹介している。次に、1575(天正3)年の明智光秀の丹波入国に際して、これに抵抗する丹波の在地武士が鬼ケ城などに立て籠もって抵抗したが、1578(天正6)年に光秀によって遂に敗れたという。また、丹波黒井城主赤井直正の弟の赤井幸家は、明智光秀の丹波入国に対抗するために中国地方の吉川元春の来丹を要請しており、その本陣として鬼ケ城を築いたが、吉川元春は出陣をとりやめたとする説を紹介している。「信長公記」は、1579(天正7)年7月、明智光秀が鬼ヶ城の近辺に放火して付城を構えたと記しており、光秀に反対する勢力が籠城していた様子である。「丹波誌」も籠城説を伝えている。遺構からみるかぎり詰城的性格は薄く、一時的な籠城や見張所として構築されたものの様である。

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