舞鶴の山城123 大俣城

おおまたじょう

・舞鶴市字大股小字洞中他
・遺構---消滅(曲輪、竪堀、横堀、土塁、虎口、畝状空堀群) ・占地---(山頂)
・標高--- ―(70m) ・比高--- ―(65m) ・遺跡地図番号---483

 この城は、京都縦貫自動車道の舞鶴大江ICの北西に位置していた。遺構は平成7年の高速道路建設により消滅したが、発掘時に現地調査を実施して図面化した。主郭は東西30m程の規模で、周囲には腰曲輪が取り巻いている。特に、主郭南側の部分では、発掘調査時には最も多くの出土物があり、生活空間として注目された。この腰曲輪から大手道を降りるとクランク状の虎口に至る。ここには柱穴が六ヶ所あり、城門とその上部に櫓が存在した事を裏付けた。その下には畝状空堀群と低い土塁で防禦された曲輪がある。主郭南東の尾根は横堀で遮断している。

 城主については、近世の地誌類には浮橋左近の城跡とするものがある。「郷土史岡田上」では、浮橋左近の活躍を明応年間(1492~1501)と仮定した上で、1506(永正3)年に逸見駿河守らの若狭勢が加佐郡に乱入し、由良川を越えて普甲寺に侵入した時に、これを由良川で撃退することを狙って浮橋ら一色方が築いた城ではないかと推定している。城主としては、他に野間安芸守・岩田蔵人・荒木幸盛の名もあがる。なお、城の周囲には水ノ手、矢前などの小字名がある。

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