舞鶴の山城107 上漆原城

かみうるしばらじょう(別名 権現山城)

・舞鶴市字上漆原小字館他
・遺構---曲輪、堀切 ・占地---山頂
・標高---180m ・比高---70m ・遺跡地図番号---3

 下漆原から板戸峠を越えて宮津の栗田に出る道に、和江から長谷を通ってくる道が上漆原で合流している。この城は合流地点の南方に位置している。南東の鞍部を二重の堀切で遮断して城域を確保し、台形の主郭を造成している。主郭の西にも曲輪があるが、全体としては小規模な城館である。城道は西山麓に下っている。

 「ふるさと岡田中」は、この城は延永氏の山城で、武蔵と称する弓の名人が守ったが、一色家の滅亡と運命をともにしたという伝承を伝えている。付近には館、馬場、殿背、殿段、的場などの地名があり、昭和15年には的場から埋納宋銭15枚が出土している。平成元年に発掘調査が行われたが、城館に関する成果は得られなかった。


【槍の長さは】
 攻撃に使う武器は、鉄砲が普及するまではなんと言っても弓矢と槍だ。接近戦となるとどうしても槍での攻防となっただろう。この槍の長さが山城の構造に大きな影響を与えただろう。切岸が高すぎて敵に槍が届かないのでは、矢がつきてしまえば防備のしようがないからだ。では槍はどの程度の長さか。「信長公記」では、信長が斎藤道三と対面した時、信長は長さ三間半の朱槍を五百本揃えたという。三間半というと6m30㎝以上になる。一般的には手槍で6尺から9尺(180~270㎝)、長柄のものでは1丈(3m)とか3間(5.4m)といわれている。(ひ)

【火縄銃】
 火縄銃が普及すると城の構造も変化する。火縄が雨に濡れにくいように曲輪の端にまで屋根が必要になる。そうすると柱が太くなるので岸が崩れないようにしなければならない。また、火縄銃の玉の射程距離も計算に入れて、丈夫で高い石垣が必要になる。ただ、舞鶴の山城では石垣をともなった城はない。それほど火縄銃が普及していなかったのだろう。
 ところで、玉の先込め式であった当時の火縄銃では、城から敵に対して銃身を下に向けたとき、玉が転がり落ちなかったのだろうか。火縄銃の会の方にお聞きしてわかった。筒の内側に鯨の油脂を塗って玉が転がらないようにしていたそうだ。(ひ)

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