舞鶴の山城100 千坂城

ちさかじょう

・舞鶴市字下東小字千坂他
・遺構---曲輪 ・占地---尾根
・標高---60m ・比高---50m ・遺跡地図番号---86

 この城は、下東の安寿姫塚の東方の尾根に位置する。千坂から座尾峠を越えて下福井にぬける街道を監視するように三段の曲輪が見られる。

城主に関する記録や伝承はない。


【曲輪の上はどうなっていたか(「築城記」より)】
 縄張図だけでは曲輪の上の構造物は分らない。発掘をして柱穴や瓦が見つかれば復元もできるが、舞鶴の城で実際に発掘された山城はほんのわずかだ。

 ところが、一乗谷遺跡で有名な越前の戦国大名朝倉氏が残した「築城記」という書物がある。これは戦国時代の山城の造り方を具体的に記した貴重な史料である。戦国大名が築く山城と、国人や村人が造る山城との間には大きな差があるだろうが、実践的な城の模範として参考にはできるだろう。(「築城記」は「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館古文書調査資料2朝倉氏の遺訓」による)

 さて、曲輪の上はどうなっていたか。「築城記」によると「塀の高さ五尺二寸ばかり、サマの長さ三尺二寸ばかり」というから、曲輪の端には高さ160㎝足らずの塀をつくり、弓矢を射る狭間の長さは100㎝足らずにせよとしている。当時の人々の身長か、それより少し高い塀をつくることが理想だったようだ。しかし、繰り返すが舞鶴の村や国人の城でそれほど立派な塀がつくれたかどうかは疑問で、多くの場合は柵があった程度ではなかっただろうか。(ひ)

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