てらだじょう
・舞鶴市寺田小字兵谷他
・遺構---曲輪、堀切、土塁、竪堀 ・占地---山頂
・標高---210m ・比高---110m ・遺跡地図番号---232
この城は池内谷の最奥で、行永に通じる街道を一望できる場所に位置する。城域は東西70m程で、西側の尾根を堀切で遮断している。曲輪の周囲には高さ0.5m程の低土塁を敷設しているが、北東方向は先端が崖のため土塁の敷設がない。全体の縄張りは池内の布敷城に類似している。
近世の地誌類でも城主名は不詳としている。
【山城日記6】
8月28日(日)池内の湯谷城(布敷)へいきました。小さい城ですが土塁があったのと、帯曲輪に土塁で仕切りがあって先へ進めなくしてあるのが、目新しいです。この日はゆっくり尾根道をいったので、ここだけでした。ひとつ気になったのは綾部側でなく、舞鶴側への防禦が堅固なことです。ここは丹波(綾部)との国境に近いのですから丹波勢の城でもおかしくないのですが・・・
池内谷は「城野」「駒ヶ谷」などの小字名があり、丹波への交通の要衝なので城が多いと聞いていたので、期待した割りに空振りが多いのです。前回行った今田下村城は城野の小字の上で、上原徳寿軒の名も城主にあがっていましたが、行ってみるとダラダラとした平坦地はあるのですが、堀切や切岸など人工的に加工した様子はありません。ただ、北に伊佐津川や西の市街が見えて見張りには絶好の場所です。しかし、1563(永禄6)年若狭武田の家臣白井氏が池内の和賀名を恩賞としてもらっているので、重要なところにちがいはないとは思うのですが・・・和賀名は現在のどこなのか比定できていません。上原氏は信濃諏訪神社の神官の家系で鎌倉時代初めに丹波の地頭となりました。丹波守護細川氏の家臣となりましたが、1500年頃には表舞台からひいています。白井氏とは時代がちがいます。城もないし、未消化のことばかりで、頭が混乱しています。(こ)
平成17.8.28