舞鶴の山城 幻の田辺城

 西舞鶴のいわゆる田辺城は、細川藤孝が入国後に建設したものであるが、これ以前にも別の田辺城があった。この田辺城では戦国時代にいくつかの事件が起こっている。

 江戸時代の舞鶴を指して「田辺藩」と呼ぶことがあるが、本来の田辺郷は伊佐津川流域から由良川右岸までの地域にあたるとされる。現在の田辺城公園や旧城下町の一帯は中世には湿地帯で、田辺郷の中心はもうすこし南の七日市や公文名であったと考えられている。

 1459(長禄3)年の「丹後国惣田数帳」をみると、田辺郷は200町歩近くで、その広さでは志楽庄と並んで加佐郡1177町歩では双璧である。しかも志楽庄とはちがって田辺郷は細川讃州という人物が一人で支配している。細川讃州とは阿波と三河国の守護大名細川成之のことである。成之の義父は細川持常といって、1440(永享12)年に一色義貫が武田信栄に暗殺された直後、義貫の三人の子供を襲撃して殺した人物である。持常はこの褒美として、一色氏から没収されたばかりの三河国守護職を与えられた。細川成之はこの義父から田辺郷と阿波・三河国の守護職を受け継ぎ、義父の没後、追善のために紺屋町の桂林寺(持常の法名は桂林院道安晋翁)に所領を寄進した。また、この寄進状に坂根修理亮の名があがるので、修理亮は細川成之の代官であったのかも知れない。結局、田辺郷は丹後国でありながら一色家からすると宿怨の地ということになる。

 1529(享禄2)年になると、綾部市の吾雀庄の豪族志賀次良左衛門尉が細川高国から田辺郷の代官に任ぜられている。したがってこの頃の田辺郷は、幕府の管領で丹波国の守護であった細川高国の支配下にあったらしい。このように田辺郷は細川氏の影響力の強い地域であったと考えられる。

 一色氏の支配が及びにくかったためか、あるいは管領細川家の内部抗争が在地支配を混乱させたためか、この田辺郷では不穏な動きが何度も起こっている。次に記録に残っているものをあげてみよう。
 ①1536(天文5)年、若狭勢が田辺城の敵を攻め、渇落させた。(「羽賀寺文書」)
 ②1538(天文7)年、若狭武田氏の家臣粟屋元隆が高浜の逸見氏と何事か陰謀を企み、田辺に
  出奔した。翌年、名田庄で戦いに敗れて逃亡した。(「羽賀寺文書」)
 ③1551(天文20)年、田辺の代官ハマという人物が小浜を訪れたが、饗応の後で若狭守護の武
  田信豊に殺された。子息左京之進らは「不知行の衆」とともに反乱に及んだ。(「羽賀寺文
  書」)
 ④1554(天文23)年、コットイ崎の戦いの時、粟屋久慶らはまず田辺郷に着陣し、地元の有力
  者を合流させてからコットイ崎に進んだが、逸見駿河守ら若狭勢に敗れた。(「梅垣西浦文
  書」の「粟屋状」)
 ⑤1579(天正7)年7月、細川藤孝は矢野但馬守と矢野藤一郎が立てこもる田辺城を攻撃し
  た。しかし、城主名については分明でないと断っている。(「綿考輯録」)
 ⑥1579(天正7)年8月、鞆の浦に逃亡していた足利義昭が、田辺籠城軍に感状を与えた。籠城
  者名は不明。(「一色家文書」)
 このように、①~④では田辺郷は若狭守護武田氏への反逆分子の拠点のようであり、⑤⑥では田辺城は細川藤孝の攻撃に対する一色方の加佐郡での拠点であったらしい。

 また、1570年代に丹後田辺津が病難火難にあったらしく、これは1570(元亀元)年に丹後と但馬の賊舩が尼子勝久と山中鹿之助に協力して島根を攻撃した神罰であるとして、1576(天正4)年に出雲の日御崎神社に寄進が行われている(「日御崎神社文書」)。このことは、少なくとも田辺が丹後水軍の拠点の一つと考えられていたことを示していないだろうか。

 このように田辺はとても複雑な性格をもつ地域ではあるのだが、肝心の田辺城の場所が分らない。建部山城は田辺郷の中心からは少し遠い。愛宕山城や佐武ケ嶽城は田辺城としては規模が小さいように思われる。城の規模と中世田辺郷の中心地から考えて、最近はこの女布城を田辺城とする意見も出ている。いやいや、田辺城はひとつだと考えることが間違いなのか。まだ当分この結論は出そうにない。(ひ)

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