西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 出来事 |
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BC100年ころ | 弥生中期 | 行永遺跡=竪穴式住居跡1基検出(写真3)、弥生土器・石器出土(’90・4~6発掘調査、以下同遺跡は同年月調査) | ||
500年ころ | 古墳後期 | 行永遺跡=柱穴群検出 | ||
1716 | 正徳6年 (享保元年)丙申 | 藩、森・行永村百性36人の逃散に対し、その妻子とも183人を追放に処する | ||
1858 | 安政5年戊午 | 3 | 藩、領分漆の儀は国産にも相成るべき品につき、他所より入り込む漆搔き差止めに致すにつき、他国へ漆搔きに罷り出る者は相成るだけ領分にて相稼ぎ申すべきこと、高津江村吉三郎を漆支配人に申しつけていたが、さらに東西相分け行永村甚右衛門へ東方漆支配人申しつけることを達する | |
1873 | 明治6年癸酉 | この年設立された学校 明倫校(北田辺町明倫館跡)・中山校(中山村祥雲寺)・順正校(七日市村西光寺)・志高校(志高村宏玄寺観音堂)・神崎校(西神崎村永春寺)・共立校(西方寺村上野弥太郎宅)・漆原校(上漆原村天然寺)・行永校(行永村怡雲庵)・福井黌(下福井村)・立敬舎(倉谷村心学道場立敬舎跡)・横山校(今田村倭文神社舞堂及び別所村安養寺跡)・登尾校(登尾村椿長九郎持家)・大波校(大波上村沖安重右衛門持家)・遵法校(泉源寺村智性院)・含章校(鹿原村荒神籠堂)・陽明校(城屋村)・鸕渓校(桑飼上村荘厳寺) | ||
1877 | 明治10年丁丑 | この年の学校 行永連区小学(行永校改称)・遵法校・含章校(志楽校分離)・順正小学校(順正校改称、公文名村に移転) | ||
1880 | 明治13年庚辰 | この年の学校 行永小学(連区小学改称)・原小学校(河辺原村へ移転)・陽明小学校(城屋村キノフへ移転) | ||
1906 | 明治39年丙午 | 7 | 1 | 新舞鶴町設置(倉梯村の内字北吸・浜・溝尻の全部、森・行永の一部及び志楽村の字市場全部と泉源寺の一部を分割) |
1939 | 昭和14年己卯 | 8 | 舞鶴海軍病院移転新営用地(東舞鶴市行永、現国立舞鶴病院)買収 | |
1941 | 昭和16年辛巳 | 4 | 4 | 東舞鶴高等女学校、仮校舎倉梯国民学校より新校舎(字行永)へ移転 |
1942 | 昭和17年壬午 | 6 | 10 | 舞鶴海軍病院(東舞鶴市字行永)竣工式 |
1954 | 昭和29年甲午 | 6 | 1 | 倉梯公民館(行永東町)設置 |
1954 | 昭和29年甲午 | 10 | 1 | 東舞鶴高等学校定時制行永分校、中舞鶴分校、平分校を統合し浮島分校設置(字溝尻) |
1954 | 昭和29年甲午 | 森、行永商工会合併し南舞鶴商工連合会と改称 | ||
1957 | 昭和32年丁酉 | 11 | 行永・森両農協合併、倉梯農業協同組合となる | |
1957 | 昭和32年丁酉 | ○上福井・行永地区の水道敷設工事施工 | ||
1960 | 昭和35年庚子 | 1 | 28 | 竜勝寺(字行永)2棟(庫裏・本堂)全焼 |
行永村の年表
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