この「村々道法之覚」は、田辺藩のすべての村について、村から田辺城までの距離と庄屋名を書き上げている。
起点は各村、終点は田辺大橋・田辺大内番所・田辺舟入番所のいずれかで、村から道法の近い終点が示してある。
各村から舟を使用する場合は、例えば
一 与保呂下村ゟ田邊大内番所迄壱里三拾
壱丁六間、濱村舟着迄三拾壱丁三拾六間
濱村ゟ田邊大橋迄舟路三里
庄屋又左衛門
のように陸路だけを使う場合と、舟路を使用した場合の距離を併記している。
奥書には、寛文9年(1669)年10月に記され、延享4年(1747)9月に写されたとしている。
村名の変遷についても若干の情報がある。
大波村がかつて春日村と呼ばれていたこと、千年(千歳)村が波佐汲村、喜多村が糠田部村、上野村(現福知山市)が算所村、京田村が興田村、有田村(現福知山市)が和田垣村と呼ばれていたことがわかる。また河原村は村中から「香良村」への改称願いが藩に出されていたが許容されていないことが書かれている。
原典:糸井文庫33-28、舞鶴市郷土資料館所蔵