水戸天狗党が来る‼ 「御手当取調書」

 原本は、舞鶴市郷土資料館蔵の糸井文庫にある。竪帳に丁寧な文字で記載されているが、年紀や筆者名の記載はない。
 以下、舞鶴市史の説明を参考にしながら解説する。
 まず最初に、この趣意が記されている。
 「東西村々へ御達之ケ條案」「常州辺脱走の浮浪共、越前表へ落行候由ニ而」とはじまっており、また「右浮浪之内越前海村ゟ乗船いたし候風説も有之」ともしている。これは幕末の水戸藩で起こった天狗党の乱を指している。
 次に、田辺藩の海岸地帯支配代官の手筈が記されている。具体的には「大浦御代官」の手筈、「白杦村出張所」の手筈、「由良神崎之海岸」の手筈となっていて、それぞれの村々の海岸で「怪敷舩」を見受けた際に、どういう経路で嶋崎番所に通知するか、その手筈が具体的に記されている。
 次に、「東西村々の鉄炮所持之もの手配出張所之割」の表題があり、「御免猟師筒所持のもの」と「拝借仕候もの」とは「格別」であるので、その任務を「差別」した上で、その持ち分を示している。前者は城と城下町の入り口を警備することが求められ、後者はそれぞれの居住する村々に近い峠や海岸などの警備が求められている。
 水戸天狗党は元治元年(1864)3月27日に筑波山で蜂起し、やがて千人以上の規模にふくれあがった。彼らはやがて京に上ることを目的として西上したが、12月20日に823人が越前新保にて加賀藩に降伏、さらに翌年2月には家老であった武田耕雲斎ら352人が越前敦賀で切られて終わった。
 田辺藩では、越前新保での天狗党降伏より早い12月8日付けで触れを出した。

兼而風聞有之候野ゟ表ニ屯罷在候浪士千人斗、此度越前之方江散乱致候ニ付、末々自国厳重相固候様京都表ゟ御沙汰有之候、右ニ付御領内江立入候義も難斗候間、兼而相触置候通相心得、若シ怪敷もの与見請候ハゝ、早速可致注進候
 右之通被仰出候間御達可有之候、以上
  (元治元年)
  十二月八日        秋田氏
    (下略)            
                (竹屋町文書 町行政60)

 さらに12月10日付けで次の触れを重ねて出した。
 

昨八日昼後、大目附滝川播摩(ママ)守様、御目附織田市蔵様従大津駅以宿継御達被成候者、野州辺脱走之賊徒共越前路江落行候趣も相聞候間、自然北国筋ゟ京地之方江落行候哉も難斗候間、領分口々厳重相備無二念鏖殺致候様、一橋中納言様被仰付候間御達被成候旨申来候間、不取敢一番手半隊吉坂辺江被差出、猶探索之趣ニゟ、御領分口々江御人数可被差出候間、兼而相触置候通相心得、若怪敷風聞等承候ハゝ急速可致注進候
   (元治元年)
  十二月十日             
   (下略)        (竹屋町文書 町行政60)

 この後12月18日付けで、今回翻刻した史料の内容を含む触れが実際に出されている(「子之御用控帳」荒木家文書 舞鶴市史通史編上1164頁に翻刻あり)。したがって、当該文書はこの直前に藩庁に出された上申書であり、天狗党が越前新保で降伏する直前だから、まだ千人以上の集団がどこに向かうか知れない状況下で作成されたもので、幕末の緊張感が伝わってくる史料である。

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