5月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2023年Xにて掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1662年(寛文2)5月1日

大地震起こる

この地震、滋賀・福井・京都に被害をもたらしました。

ヒントは「かなめいし」です。

大津市歴史博物館の「湖都大津の災害史」も参考になります。

https://rekihaku.otsu.shiga.jp

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1756年(宝暦6年)5月2日

田辺藩がお救いとして、年貢米延納分3200俵の上納免除・農料米1000俵の給付を仰せ出したとあります。

宝暦の百姓一揆の記述ですね。一揆は3月19日から始まり、藩の一時的な譲歩案で終息していきました。

「十八世紀三〇~五〇年代における田辺藩の百姓一揆」『舞鶴地方史研究』5

十八世紀三〇~五〇年代における田辺藩の百姓一揆『舞鶴地方史研究』5

舞鶴市史では享保、宝暦の一揆が多く紙幅が割かれています。舞鶴地方史研究ではこのような論考もあります。

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1865年(慶応元)閏5月4日

志楽組大庄屋、将軍進発につき藩主左右備えのため江戸表発駕の由、これにより武運長久の祈祷献上を三か所において致す旨伺い出たこと

将軍の進発とは何でしょうか。

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1930年(昭和5)5月

舞鶴要港部工作部で駆逐艦夕霧が進水しています。

軍艦が進水すると記念絵葉書が作られていました。

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1864年(元治元)5月6日

藩、京都御固め迎い人足、来る9日出立、10日京着に仰せつける間、明後8日7ツ時過ぎに立会所にて路用、鑑札受け取り、9日勝手に出立致すよう達する

京都御固め、とは何でしょうか。

この時、京都には誰がいるでしょうか。

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1738年(元文3)5月7日

雨降りが6月2日まで続き、6月3~27日は雨が降らず 故に大悪作となる

このため、藩は、5年間、「御用捨」と称して、各村高内引き(全藩合計3558石)の減税を実施します。

近世の天気を調べるには、「歴史天候データベース」が参考になります。

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1867年(慶応3)5月8日

志楽組大庄屋が、鎌鷺を威すため、組中所持の鉄砲の使用を願い出て、藩より許可が出た。そのため、4月より8月まで村々所持の筒にて威すよう達した。

鎌鷺とは? なぜ、鉄砲で脅すのでしょう。

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1894年(明治27)5月9日

京都鉄道京鶴線の京都、綾部、舞鶴間、鉄道敷設が許可

現在のJR山陰本線。この許可が出た後すぐには鉄道は完成しませんでした。その後舞鶴鎮守府が開庁すると、鉄道敷設が必須となり、京都鉄道の免許は取消され国鉄が計画を進めていきます。

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1846年(弘化3)5月10日

藩は、江戸表屋敷普請用の御用材木を、今田村青谷林や村々宮山にて伐り出しています。

これは1月15日江戸の大火による表屋敷の類焼によるものです。

領内の山林、材木に関しては、こちらのコラムが参考になります。

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1927年(昭和2)5月11日

アメリカ人形(アメリカ国際親善会寄贈)、加佐郡内小学校、幼稚園に11個届く

この人形、渋沢栄一が仲介した青い目の人形です。

11体の内、舞鶴幼稚園(現舞鶴こども園)分が現存し、市の文化財に指定されています。---

1829年(文政12)5月

藩は、江戸藩邸類焼のため、身分に応じて御用立木を翌年暮までに差し出すよう達しています。

これは前回の弘化3年と同じく、3月21日に起こった江戸大火による類焼です。

この時集めた用材は、由良村米屋四郎左衛門の礒部丸で江戸へ運漕しました。

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5月13日、由良が2件あります。

1746年(延享3)幕府巡見使来藩する この日、由良村休み、田辺宿泊

1956年(昭和31)加佐郡由良村議会、舞鶴市合併申入れ取下げを決議

由良(現宮津市)の由良神社は、軍艦由良の艦内神社となり、艦長他全乗員は神社に6回も参詣しています。

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1746年(延享3)5月13~14日

幕府巡見使は5月13日由良村休み、田辺宿泊、14日北有路村に宿泊

その後、河守にて福知山藩へ人足を継ぐ。

この年、藩の人口3万7995人、うち百性3万2106人、町人5452人、僧・社人・山伏437人です。これは巡見使への回答だと思われます。

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1946年(昭和21)5月15日

舞鶴共済病院、旧舞鶴海仁会病院を買収し舞鶴共済病院東舞鶴分院開院

舞鶴共済病院は明治40年舞鶴海軍工廠職工共済会病院として開院しました。

舞鶴海仁会病院は昭和15年海軍軍人などの家族を対象として開院し、現在市立市民病院となっています。

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1944年(昭和19)5月16日

軍艦吾妻解隊式

軍艦吾妻とは?

明治42年2月、伊藤博文は吾妻に乗って仁川から帰国します。

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1837年(天保8)5月17日

藩、難渋者に救い米を給する

4月15日にも、藩、囲蔵預米50俵を放出しています。

いわゆる天保の飢饉ですが、この年の年貢米高2万3282石となり、前年より8000石増えました。

凶作の次は豊作、規則性があるのでしょうか?

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1942年(昭和17)5月18日

舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊、附属兵装隊、同設営隊等、舞鶴を出港

5月1日に編成されたこの部隊は、6月7日キスカ島に上陸します。

1年後、キスカ撤退作戦により無事帰還します。

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1784年(天明4)5月19日

田辺藩主牧野宣成の命により、病難よけの祈祷札を町中へ配布します。

『舞鶴市史』上には、23日各町で御礼に臨時待ちで朝代社・理正院(円隆寺)へ惣参り、24日日尽し(休み日)を行うとあります。天明の飢饉による疫病流行だと思われます。

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1814年(文化11)5月20日

家老巡在につき、国益・村益になること、衣食続きかねる者があれば、書付など申し出るよう達する

家老が地方を順在するのは、田辺藩では「野形見分」と呼ばれました。この文化11年は、伊能忠敬が測量のため田辺藩を訪れています。

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1668年(寛文8年)5月21日

京極高盛、但馬国城崎・二方・気多・養父・美含郡の内において、本高をもって所替するよう仰せつけられる。

京極家は田辺藩から豊岡藩へ転封となりました。曾祖父京極高知が丹後に入って68年、祖父高三が田辺藩主となって46年の支配でした。

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1811年(文化8)5月22日

野村寺村新左衛門が、村々へ田地に作人名を記した木札を立てるよう指示しています。

新左衛門は、藩の命により畿内・中国辺の農業を見聞しています。その後、前年12月、領内をまわり利得な作り方を各村百姓に知らせており、地方巧者といえます。

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1836年(天保7)5月23日

池之内組、雨天続きなので天王社において五穀成就の護摩修行をし、村々は休日となり参詣しました。

天王社に参拝したのは上安久・福来・倉谷・境谷村です。『丹後国加佐郡旧語集』によると、天王宮は倉谷にあり、山伏泉光院が管理しています。

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1844年(天保15)5月24日

藩、大庄屋1組ごと稗1000石を当年より5か年の間に囲うように達する。

領内の囲蔵は、1819年(文政2)大庄屋組ごとに建造を指示され、天保の飢饉で機能しました。その後も継続して米・稗を囲いました。

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1867年(慶応3)5月25日

田辺藩第9代藩主牧野誠成は、当年が牧野氏の田辺城地拝領200周年なので、歴代の祖霊を城内大書院において祭り、家臣を供応、領民へも酒肴を給しました。

1668年(寛文8)5月23日初代藩主牧野親成が田辺へ所替となり、200年でした。

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1846年(弘化3)閏5月26日

藩は、江戸表屋敷普請中は在町普請を差し止めること、理由があれば作事奉行所に申し出ることと達しました。

5月10日に書いたように、これは1月15日江戸の大火による表屋敷の類焼によるものです。

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1943年(昭和18)5月27日

舞鶴市、東舞鶴市合併し、舞鶴市制を施行

今日は、舞鶴市の誕生日です。そして、今年は市制施行80周年となります。

前身の舞鶴市は、1938年に舞鶴町が市制施行しています。

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1889年(明治22)5月28日

鎮守府条例公布、第4海軍区鎮守府を舞鶴に設置決定

昨日は舞鶴市の誕生日、今日は舞鶴鎮守府の設置公布日でした。

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1867年(慶応3)5月29日

牧野家の田辺拝領200年、祝儀として酒肴を町方一同へ下賜、6月3日、朝代社において武運長久の祈祷執行、町の年寄、肝煎、組頭他一同参詣、酒を頂戴しています

5月25日の続きですね。領民が領主の武運長久を祈っています。

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1832年(天保3)5月

藩では、屋敷地は畑地にすることを定めているが、人口増加により田地へ家を作る者もある。田地を潰せば耕地が減り困窮の原因となる。そのため今後は、田地への屋敷建設は停止するよう達した。

家を作るなら山沿いか下畑、地性の悪い場所とあります。

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1815年(文化12)5月

藩は、高分・家作・別宅等を願による許可制とする。それぞれの家、1軒1軒が遠く離れると五人組が成立せず、互いの救いにならないのが理由。

1775年(安永4)にも同じ内容の指示があり、1832(天保3)も含めて3回触がでています。詳しくは『舞鶴市史』上、910~912頁。

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5月 まるまる舞鶴 今日は何の日 (2023年掲載、『舞鶴市史』年表を中心に)

1662年(寛文2)5月1日

大地震起こる

この地震、滋賀・福井・京都に被害をもたらしました。

ヒントは「かなめいし」です。

大津市歴史博物館の「湖都大津の災害史」も参考になります。

https://rekihaku.otsu.shiga.jp

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1756年(宝暦6年)5月2日

田辺藩がお救いとして、年貢米延納分3200俵の上納免除・農料米1000俵の給付を仰せ出したとあります。

宝暦の百姓一揆の記述ですね。一揆は3月19日から始まり、藩の一時的な譲歩案で終息していきました。

「十八世紀三〇~五〇年代における田辺藩の百姓一揆」『舞鶴地方史研究』5

https://marumaru.kpu-his.jp/column/2023/03/415

舞鶴市史では享保、宝暦の一揆が多く紙幅が割かれています。舞鶴地方史研究ではこのような論考もあります。

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1865年(慶応元)閏5月4日

志楽組大庄屋、将軍進発につき藩主左右備えのため江戸表発駕の由、これにより武運長久の祈祷献上を三か所において致す旨伺い出たこと

将軍の進発とは何でしょうか。

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1930年(昭和5)5月

舞鶴要港部工作部で駆逐艦夕霧が進水しています。

軍艦が進水すると記念絵葉書が作られていました。

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1864年(元治元)5月6日

藩、京都御固め迎い人足、来る9日出立、10日京着に仰せつける間、明後8日7ツ時過ぎに立会所にて路用、鑑札受け取り、9日勝手に出立致すよう達する

京都御固め、とは何でしょうか。

この時、京都には誰がいるでしょうか。

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1738年(元文3)5月7日

雨降りが6月2日まで続き、6月3~27日は雨が降らず 故に大悪作となる

このため、藩は、5年間、「御用捨」と称して、各村高内引き(全藩合計3558石)の減税を実施します。

近世の天気を調べるには、「歴史天候データベース」が参考になります。

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1867年(慶応3)5月8日

志楽組大庄屋が、鎌鷺を威すため、組中所持の鉄砲の使用を願い出て、藩より許可が出た。そのため、4月より8月まで村々所持の筒にて威すよう達した。

鎌鷺とは? なぜ、鉄砲で脅すのでしょう。

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1894年(明治27)5月9日

京都鉄道京鶴線の京都、綾部、舞鶴間、鉄道敷設が許可

現在のJR山陰本線。この許可が出た後すぐには鉄道は完成しませんでした。その後舞鶴鎮守府が開庁すると、鉄道敷設が必須となり、京都鉄道の免許は取消され国鉄が計画を進めていきます。

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1846年(弘化3)5月10日

藩は、江戸表屋敷普請用の御用材木を、今田村青谷林や村々宮山にて伐り出しています。

これは1月15日江戸の大火による表屋敷の類焼によるものです。

領内の山林、材木に関しては、こちらのコラムが参考になります。

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1927年(昭和2)5月11日

アメリカ人形(アメリカ国際親善会寄贈)、加佐郡内小学校、幼稚園に11個届く

この人形、渋沢栄一が仲介した青い目の人形です。

11体の内、舞鶴幼稚園(現舞鶴こども園)分が現存し、市の文化財に指定されています。---

1829年(文政12)5月

藩は、江戸藩邸類焼のため、身分に応じて御用立木を翌年暮までに差し出すよう達しています。

これは前回の弘化3年と同じく、3月21日に起こった江戸大火による類焼です。

この時集めた用材は、由良村米屋四郎左衛門の礒部丸で江戸へ運漕しました。

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5月13日、由良が2件あります。

1746年(延享3)幕府巡見使来藩する この日、由良村休み、田辺宿泊

1956年(昭和31)加佐郡由良村議会、舞鶴市合併申入れ取下げを決議

由良(現宮津市)の由良神社は、軍艦由良の艦内神社となり、艦長他全乗員は神社に6回も参詣しています。

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1746年(延享3)5月13~14日

幕府巡見使は5月13日由良村休み、田辺宿泊、14日北有路村に宿泊

その後、河守にて福知山藩へ人足を継ぐ。

この年、藩の人口3万7995人、うち百性3万2106人、町人5452人、僧・社人・山伏437人です。これは巡見使への回答だと思われます。

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1946年(昭和21)5月15日

舞鶴共済病院、旧舞鶴海仁会病院を買収し舞鶴共済病院東舞鶴分院開院

舞鶴共済病院は明治40年舞鶴海軍工廠職工共済会病院として開院しました。

舞鶴海仁会病院は昭和15年海軍軍人などの家族を対象として開院し、現在市立市民病院となっています。

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1944年(昭和19)5月16日

軍艦吾妻解隊式

軍艦吾妻とは?

明治42年2月、伊藤博文は吾妻に乗って仁川から帰国します。

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1837年(天保8)5月17日

藩、難渋者に救い米を給する

4月15日にも、藩、囲蔵預米50俵を放出しています。

いわゆる天保の飢饉ですが、この年の年貢米高2万3282石となり、前年より8000石増えました。

凶作の次は豊作、規則性があるのでしょうか?

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1942年(昭和17)5月18日

舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊、附属兵装隊、同設営隊等、舞鶴を出港

5月1日に編成されたこの部隊は、6月7日キスカ島に上陸します。

1年後、キスカ撤退作戦により無事帰還します。

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1784年(天明4)5月19日

田辺藩主牧野宣成の命により、病難よけの祈祷札を町中へ配布します。

『舞鶴市史』上には、23日各町で御礼に臨時待ちで朝代社・理正院(円隆寺)へ惣参り、24日日尽し(休み日)を行うとあります。天明の飢饉による疫病流行だと思われます。

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1814年(文化11)5月20日

家老巡在につき、国益・村益になること、衣食続きかねる者があれば、書付など申し出るよう達する

家老が地方を順在するのは、田辺藩では「野形見分」と呼ばれました。この文化11年は、伊能忠敬が測量のため田辺藩を訪れています。

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1668年(寛文8年)5月21日

京極高盛、但馬国城崎・二方・気多・養父・美含郡の内において、本高をもって所替するよう仰せつけられる。

京極家は田辺藩から豊岡藩へ転封となりました。曾祖父京極高知が丹後に入って68年、祖父高三が田辺藩主となって46年の支配でした。

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1811年(文化8)5月22日

野村寺村新左衛門が、村々へ田地に作人名を記した木札を立てるよう指示しています。

新左衛門は、藩の命により畿内・中国辺の農業を見聞しています。その後、前年12月、領内をまわり利得な作り方を各村百姓に知らせており、地方巧者といえます。

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1836年(天保7)5月23日

池之内組、雨天続きなので天王社において五穀成就の護摩修行をし、村々は休日となり参詣しました。

天王社に参拝したのは上安久・福来・倉谷・境谷村です。『丹後国加佐郡旧語集』によると、天王宮は倉谷にあり、山伏泉光院が管理しています。

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1844年(天保15)5月24日

藩、大庄屋1組ごと稗1000石を当年より5か年の間に囲うように達する。

領内の囲蔵は、1819年(文政2)大庄屋組ごとに建造を指示され、天保の飢饉で機能しました。その後も継続して米・稗を囲いました。

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1867年(慶応3)5月25日

田辺藩第9代藩主牧野誠成は、当年が牧野氏の田辺城地拝領200周年なので、歴代の祖霊を城内大書院において祭り、家臣を供応、領民へも酒肴を給しました。

1668年(寛文8)5月23日初代藩主牧野親成が田辺へ所替となり、200年でした。

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1846年(弘化3)閏5月26日

藩は、江戸表屋敷普請中は在町普請を差し止めること、理由があれば作事奉行所に申し出ることと達しました。

5月10日に書いたように、これは1月15日江戸の大火による表屋敷の類焼によるものです。

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1943年(昭和18)5月27日

舞鶴市、東舞鶴市合併し、舞鶴市制を施行

今日は、舞鶴市の誕生日です。そして、今年は市制施行80周年となります。

前身の舞鶴市は、1938年に舞鶴町が市制施行しています。

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1889年(明治22)5月28日

鎮守府条例公布、第4海軍区鎮守府を舞鶴に設置決定

昨日は舞鶴市の誕生日、今日は舞鶴鎮守府の設置公布日でした。

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1867年(慶応3)5月29日

牧野家の田辺拝領200年、祝儀として酒肴を町方一同へ下賜、6月3日、朝代社において武運長久の祈祷執行、町の年寄、肝煎、組頭他一同参詣、酒を頂戴しています

5月25日の続きですね。領民が領主の武運長久を祈っています。

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1832年(天保3)5月

藩では、屋敷地は畑地にすることを定めているが、人口増加により田地へ家を作る者もある。田地を潰せば耕地が減り困窮の原因となる。そのため今後は、田地への屋敷建設は停止するよう達した。

家を作るなら山沿いか下畑、地性の悪い場所とあります。

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1815年(文化12)5月

藩は、高分・家作・別宅等を願による許可制とする。それぞれの家、1軒1軒が遠く離れると五人組が成立せず、互いの救いにならないのが理由。

1775年(安永4)にも同じ内容の指示があり、1832(天保3)も含めて3回触がでています。詳しくは『舞鶴市史』上、910~912頁。

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