2023年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
1894年(明治27)9月1日
舞鶴町、消防組合を改組し公設舞鶴消防組を組織
内務省は2月に「消防組規則」を公布し、新消防組は警察署長の指揮・監督を受け、経費は市町村が支出する公設となりました。舞鶴消防組は組頭1、小頭3、消防手100人で発足しました。
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1897年(明治30)9月3日
水産巡回教師牛窪其三男、府直轄事業として由良川のサケ人口孵化事業の開始を建言
このサケの人工孵化は大正期に由良で行われ、加佐郡内のサケの漁獲は、大正14年765貫、昭和6年1284貫、昭和12年984貫と推移します。
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1842年(天保13)9月5日
藩、男女年季稼ぎの儀は拠無い筋合を村役人が聞き取って大庄屋に申し出、大庄屋が篤と糺して代官並びに下役へ申し出、指図を受くべき旨達する
藩は同年7月18日、在方男女の他所稼ぎの禁止を通達し、下作稼ぎ渡世をするよう指示しました。田畑を耕作する労働力が他所稼ぎや年季稼ぎに流出しないように規制しました。---
1727年(享保12)9月6日
田辺大火事 4ツ時より7ツ時まで延焼、大橋より城側の町家全焼、城大手門・櫓とも炎上、三ノ丸裏町侍屋敷全焼
この年は、6月26日も田辺朝代町火事、引土村類火、朝代町家数49軒・引土村同13軒焼失しています。夏は大干ばつで田畑が大被害を受けました。
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1602年(慶長7)9月
京極高知が実施した検地により、丹後国12万3175石が検出されました。
7月に開始したもので、丹後国内でも舞鶴市域である加佐郡は8月中に終了していたようです(『舞鶴市史』通史編上)。
この検地により天正検地より石高が11.3%増加する結果となりました。
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1806年(文化3)9月10日
伊能忠敬ら、測量のため宮津藩栗田より当藩に入る この日、由良村泊り
西から田辺領内に入った伊能の一行は、沿岸部を中心に測量し、11~12日田辺本町、13日市場、14平、15田井・瀬崎、16田井村に泊り、17日若狭国大飯郡日引・上瀬村へ行きます。
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1869年(明治2年)9月11日
舞鶴藩、藩士公選で大参事、権大参事、小参事、権小参事を選出
大参事牛窪左近、権大参事城所次郎兵衛、小参事牧野年二郎、権小参事平井四郎左衛門でした。城所は、前年1月21日家老として、田辺に来た西園寺山陰鎮撫総督を見送っています。
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1600年(慶長5)9月12日
中院通勝、冨小路秀直、大石甚介ら、これより先、京都、大坂、田辺間を往来、勅使の丹後下向が画策される この日、勅使、田辺に来着、両軍和議して田辺城攻囲を解き、開城するようにとの叡慮を伝える 両軍これに従う
田辺城籠城戦の終盤です。
最新情報、詳しくはこちらを参照してください。
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1854年(嘉永7)9月14日
藩、領分桐実、櫨実は国産の思召につき他国へ出荷差止めのところ、当1回他国売り御免と沙汰する
桐実は、天保11年他国売買が禁止されましたが、嘉永3年大庄屋が不作のため他国売買の願書を出します。嘉永5年に他国売が1回のみ許可され、2度目でした
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1600年(慶長5)9月15日
細川忠興、美濃国関ヶ原の合戦において、東軍の右翼に布陣、西軍を猛撃して戦功をあげる。京極高知、関ヶ原の戦いで戦功を立てる。
関ヶ原の戦は、田辺城開城直前でした。
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1813年(文化10)9月
藩、9月~来年夏、城下近遠、東は榎峠・城取峠、南は布敷村滝・真倉村壱里塚、西は城屋村氏神社・真壁峠・大船峠・竹路峠、北は金崎・丑渡シ、鉄砲鳥殺生札所持であっても留場とする
この留場は藩主の狩のため設定されました。
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1600年(慶長5)9月18日
家康、本陣近江国八幡山城に伺候した忠興へ、急ぎ帰国して籠城中の田辺の後詰をするよう仰せつける。
幽斎、田辺城を退く。
この日、細川忠興は田辺に向かい、幽斎は田辺城を去ります。そして、19日丹波国馬堀で対面します。
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1887年(明治20)9月20日
加佐郡舞鶴湾を第4海軍区鎮守府の位置に内定
9月6日有栖川宮参謀本部長から、西郷従道海軍大臣へ申し入れがあり、この日、西郷大臣が同意し内定しました。
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1843年(天保14)9月
立敬舎社中、柴田遊翁来講の節、石田梅岩百年忌・柴田鳩翁五年忌法要を営む
田辺心学の拠点立敬舎で、石門心学の祖石田梅岩、田辺に来講した柴田鳩翁の法要が行われました。遊翁は鳩翁の後継者として、領民教化や地元の心学者養成に尽力します。
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1848年(嘉永元)9月23日
池之内組大庄屋、白焔硝道具を倉谷村焔硝蔵より天台村へ持ち運ぶ人足15人を、福来、倉谷村に割りつける
1863年(文久3)10月には、藩が引土町播磨屋宇兵衛へ軍用白焔硝製造を指示し、焔気ある家々を見回り、床下の土を家主の迷惑に及ばないよう採取させています。火薬の原料は、床下にありました。
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1852年(嘉永5年)9月24日
藩、内海の浜辺にて蛸取り多く吉原町魚漁稼ぎに差し支え難渋の趣につき、海辺地先村々は格別、脇村の者は蛸取り禁止と達する
1731年(享保16)の「加佐郡寺社町在旧起」には、吉原町で蛸をはじめ50種もの魚介類が売買されているとあります。
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1953年(昭和28)9月25日
台風13号来襲、市全域に被害甚大(降水量445.5mm、瞬間風速40.6m)、死者53人、負傷者131人、被害総額57億円
台風13号による舞鶴市内災害救助のため警備隊舞鶴地方隊出動
この台風13号の被害の記録『よみがえる13号台風の恐怖』が今日刊行されました。多門院地区の被害回想の全翻刻、被害と復旧の写真、降水量と回想の相関図、被災以前の絵図です。
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1867年(慶応3)9月26日
藩蔵米初値段、1石につき銀526匁
蔵米値段は、1812年44匁でしたが、徐々にあがり、天保の飢饉時には1836年118匁、1837年136匁と増加しました。その後、60~90匁を推移し、1858年121匁となり、1865年480匁、1866年銀870匁と高騰していました。
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1600年(慶長5)9月29日
忠興、福知山攻城戦中のこの日、由良川を福知山から加佐郡中山の城まで川舟で下り、それより陸路田辺に入って実母をはじめ家族と対面する。
忠興は、27日から小野木公郷の福知山城を攻略し、城が要害堅固で長期作戦を取ったので、10数日に及びます